瀬川貴次の万物ぶらぶら(仮),segawa takatsuga no bambutsu burabura illustration星野和夏子

其の三:謎の煩悩

其の三:謎の煩悩

わたしには野望がある。いつの日にか、自分だけの地蔵をみつけ、その地蔵像のために毎月、頭巾と前掛けを手作りしてあげたいという野望だ。かような思いに駆られるようになったきっかけは、いつの頃だったか、とあるテレビ番組を観たことであった。確か、NHK。五分とか一〇分程度の短い番組で、元気なご長寿さん、それも九十歳だか百歳だかのかたを紹介するといった内容だ。わたしが偶然、拝見したご長寿さんは毎月、頭巾と前掛けを手作りして、近所の石地蔵に着せてやっている素敵なおばあさまだった。彼女が嬉々として作っていた頭巾と前掛けは、定番の赤無地ではなく、水色の地に手描きイラスト風のイチゴが散っている、なかなかキュートな柄物だ。それを目にした瞬間、わたしは叫んだ。「ホーミーコレクションの新柄だ。わたしも同じ柄の布、ユザワヤで買っちゃいましたよ、お仲間ですね!」そして、悟ったのだ。既成概念に縛られてはいけない。地蔵にイチゴ柄の水色頭巾と前掛けを着せても、なんら問題はないのだと。天啓に打たれるとは、まさにこのことだった。わたしも地蔵に頭巾と前掛けを作りたいと、心の底から思った。実はミシンを手に入れてからというもの、布小物をちょいちょい手作りするのが趣味となっていたのである。それこそ、出来がちょっとくらいアレでも、死蔵している布やレースをこれでもかと放出してゴスロリチックなものをこしらえても、石の地蔵ならきっと文句も言わずに身にまとってくれるだろう。もはや、それは頭巾ではなくボンネットかもしれない。前掛けではなくジレかもしれない。だが、けっしてふざけているわけではないのだ。とにかく作りたいのだ。笠地蔵ならぬゴスロリ地蔵が恩義に感じて、大晦日に米俵を玄関先に置いていってくれるんじゃないかなとか、そんな期待もしていない。想像してニタニタ笑いはするけれども、本心から望んでいるわけではない。見返りなど、いりはしない。月イチペースなら継続させられそうな気がする(六地蔵だと厳しいが)。一ヶ月間、風雨にさらされてボロボロになった前掛けなら、惜しげもなく捨てて、気分よく新しい物に換えてやれるだろうし。とにかく何かを作りたいという、この謎の煩悩をぶつける対象として、路傍の地蔵菩薩ほど相応しい相手を、わたしは他にみつけることができない。……といった話を友人に熱く語ったらば、全力で止められた。「やめなさい。わたしたちの年齢でそれをするには早すぎる。かわいそうなヒトだと、まわりに誤解されかねないってばよ」当時、わたしは四十路に差しかかったばかりだった。昔の感覚ならば初老と呼ばれるお年頃だ。それでも駄目なのかと、世間の無理解に、泣いた。とても哀しかったけれど、友人の指摘ももっともだと思って、あきらめた。あれから幾星霜。地蔵に前掛けを作っても誤解されない年齢とはいくつだろうかと真剣に考え、年金受給開始年齢の六十五歳かなと想定してみた。まだまだその歳には届かないが、確実に一歩一歩近づいてはいる。「だからね、六十五歳になったらMy地蔵を探しに行こうと思ってるんだ……」と、別の友人に夢見心地で語ったら、冷たく、「あんた、何言ってんの? わたしたちが年金もらえるのは、七十五をすぎてからよ」衝撃だった。追っても追っても追いつかない。地蔵との蜜月がどんどん遠ざかっていく。嗚呼、わたしがMy地蔵とめぐり逢うのは果たしていつになるのだろうか……。──と、嘆いてばかりでもない。去年のこと、わたしは旅先の某稲荷系神社の境内で、とても愛らしい前掛けを胸に飾っている狐の石像を見かけた。定番の赤無地、四角い前掛けの上に、ピンクの花柄の半円形スタイ(よだれかけ)が重ねられていたのだ。もちろん、手作りである。半円の縁には白い薄手のフリル、花柄の上には銀色のブレードが数本、斜めに縫い付けられていた。その気合いの入りようにいたく感動し、狐像をじっと眺めていたわたしは、ふと近くの手水舎にも目をやった。手水舎の水の注ぎ口が、龍の頭になっていたのだが、その苔むした石の龍頭が豪華なヘッドドレスを冠していたのだ。頭囲を巻く細い赤布に、濃いピンクのフリンジが額部分を覆うようにあしらわれ、フリンジの上には、狐のスタイに施されていたものと同じ銀のブレードが輝いていた。しかも、赤布の端にはアイロン接着されたと思しき、ひらがなワッペンが三つ、〈た〉〈つ〉〈よ〉と並んでいる。わたしは心の中で叫んだ。「〈たつよ〉ちゃん? あなたの名前は〈たつよ〉ちゃんなのね!」……信心とは少ぅし違う、何かを作りたいという謎の煩悩を、路傍の石像に浄化してもらっているひとびとは、存外、多いのかもしれない。あのヘッドドレスの作り手は、いかにして〈たつよ〉ちゃんとの御縁を結んだのだろうか。いまとなっては確かめようもないが、単にご近所さんだったとか、そんなナチュラルな雰囲気はそこはかとなく漂っていた。つまり、地蔵との出逢いとはわざわざ追い求めるものではなく、ごく自然にめぐってくるものなのかもしれない。だとすれば、あせって探し求める必要もない気はしてくる。ならば、ひとまず熱い野望は胸にしまって、御縁を待ちつつ、いまは静かに微妙柄の枕カバーでも作っておくとしようか。
トノサマ