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小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

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「短編小説新人賞」の選者として、毎回投稿作品に対し、厳しくも愛情あふれるコメントを寄せてくれる
三浦しをん先生が、小説を書くために押さえておきたい「お作法」を教えてくれます。

第5回「『人称』選びで、キャラクターの魅力をアップ!(一人称編)」

さて、構成は立てました。つまり、どんなお話を書きたいのか、おおまかな道筋は見えた。次に考えるのは、「人称」かなという気がします。

もちろん、考えなきゃならんことはほかにも山ほどあります。「魅力的な登場人物にするには、どうしたらいいか」とか。しかし、登場人物にまつわること(性格やセリフ)は、率直に言って「好み」の部分が大きい。
作者が、「ドヤ! この主人公ならモテるのも納得だろう!」と思って書いても、必ずしもすべての読者の同意を得られるとはかぎりません。「ええー、なんか自分勝手な主人公で、やだ」「ていうか童貞くさい」など、絶対に異論が出てくるものです。当然と言えば当然で、全人類からモテモテの人間などいないのと同様、登場人物に対する好みや受け止めかたも、ひとそれぞれ。たとえ架空の人物であっても、「万人受けする人間」などいないということです。

登場人物の性格づけやセリフには、作者の好みや感性が出やすいし、その登場人物を「いい」と思うか「やだ」と思うかもまた、読者の好みや感性によるところが大である。つまり、理屈や理論でどうにかするのが難しい部分のような気がするんですよね……。
私もこれまで、「こういう男性(あるいは女性)って素敵だわ」と思って書いた登場人物が、いまいち読者のかたにピンと来ていただけなかった、という経験がちらほらあり、自身の趣味の特殊性を思い知らされるというか、「すみません、生まれなおしてきます」というか、もうトホホです。

それに比べると、「『人称』をどうするか問題」は、理屈・理論がものを言う部分だと思います。戦略の練りどころ、ということです(もちろん一部の天才は、戦略など練るまでもなく、書きたい物語にぴったりな人称を本能で選び取れるのでしょうけれど)。

「どういう人称がふさわしいか」を考え抜いたうえで小説を書くことによって、物語と登場人物をより輝かせられるのではないか、と私は思っています。好みや感性に委ねられる比重が大きい「登場人物の魅力」を、理屈と理論がものを言う「人称」の選択を通し、底上げすることが可能なのです。
以下は、私が人称についてざっくりと、「こういう特徴があるかな」と思っていることです。ご参考までに……。

【一人称】
「私は」とか「俺が」とか、ある一人の人物の視点に基づいて、物語が語られていきます。
一人称は、郷愁や抒情を醸しだしやすい気がします。過去の出来事を振り返る、といった物語のときに、ひときわ効力を発揮するということです。


 十七歳の夏、私が経験した出来事について語ろう。これから何年生きようとも、二度と味わうことはないであろうきらめきと喜び、そして少しの痛みを帯びた、あの夏の出来事について。

ってな感じに。

一人称の弱点は、一人の人物の視点からしか描けないので、どうしても視野が狭くなりやすいところです。物語に閉塞感が出てしまったり、「なんかこの語り手、独りよがりだな」と読者に思われてしまったりするおそれがある、ということです。

「視野が狭くなる」例をひとつ挙げると、一人称では基本的に、語り手の外見について書きにくいです。
応募作でよくあるパターンは、「一人称の語り手が鏡を見るシーンで、ついでに自身の外見を説明する」です。しかし、「それはだれに対する説明なんだよ。だれもおまえの外見なんて尋ねてないだろ。毎朝顔を洗うついでに鏡を見るたび、いちいち、『病的なまでに白い肌、湖のように青い目、母譲りの金髪』とか、自分の外見を脳内で説明するひとっているか?」と、読者にツッコまれることを覚悟せねばならないでしょう。

一人称でどうしても語り手の外見を説明せねばならない場合、私が思いつくかぎりでベストな解決策は、「語り手以外のだれかが、語り手の外見を話題にする。それに対して、語り手がなにか受け答えしたり、思ったりする」です。


「おまえ、いつもなまっちろい顔色してんなあ。ちゃんと朝飯食ってきたのか?」
「うるっさいな。ご飯大盛り三杯食べたよ」
「ならいいけど。ま、見ようによっちゃあ、白い肌に青い目が映えて、今日もきれいだぜ」
「死ね、キザ野郎」
「あーあー、髪の毛もぼさぼさじゃねえか。俺が梳かしてやろっか。妹の髪を毎朝編んでるから、慣れてるし」
 もはや何百回繰り返されたかわからないアンディとの攻防を、このたびも冷酷なる無視で締めくくった私は、こっそりとため息をついた。身勝手に出奔した母を彷彿とさせる、このいまいましい髪。こんな乾燥した麦わらみたいな色の髪、アンディに触ってほしくない。私もケイティのように、艶やかな黒髪だったらよかったのに。
 (三浦注:ケイティとは、アンディの妹の名です。)

ってな感じに。

……「ベストな解決策」とはとても思えぬ作例になってしまいましたが、相当の「手数(てかず=細かい段取りや工夫)」を繰りださないと、語り手の外見を自然な流れのなかで描写するのが難しいということは、なんとなく感じ取っていただけたかと思います。一人称は、わりと不自由な人称なのです。

とはいえ、弱点と利点は表裏一体。たとえば叙述トリックを仕掛ける場合、一人称が選択されるケースが多い傾向にあります。これは、一人称の語り手の「語れる範囲(視野)の狭さ」を、逆手に取った戦略と言えるでしょう。一人称だと、語り手が語りたくないことは語らずに(=あえて情報を伏せて)、話を進めることができるのです。

さて、一人称特有の閉塞感を打破し、物語れる範囲(=視野)を広げるためには、どうすればいいのか。「Aさんの一人称→Bさんの一人称→Cさんの一人称」と、章などによって視点人物を変えるのが、ひとつの手です。
しかし、そうすると長編ではなく連作っぽくなったりしますし、一作のなかで「なりきり力」がものすごく要求されるという弊害も生じます。「Aさん」「Bさん」「Cさん」三者三様の語り口を、視点人物が変わるつど、書き分けなければならないからです。

けれど、これもまた、弱点と利点は表裏一体。一人称は、「なりきってしまえば、こっちのもん」とも言えます。視点人物の内面に深く潜って描写することも、その語り口から視点人物の性格をビビッドに浮かびあがらせることも可能なのです。
ある一人の人物の視点、語りのみを通して物語を展開させるとは、すなわち、その人物に読者を惹きつけ、没入させる力が強くなるということです。一人称の語り手にうまくなりきって書くことができれば、読者が語り手に思い入れ、「物語にひたる」感覚を味わってくれる度合いが高まるでしょう。

私は基本的に、「登場人物が比較的少人数」で、「繊細かつ微細な心情や関係性を描きたい」と思っていて、なおかつ「短編・中編(せいぜい百枚ぐらいまで)の場合」に、一人称を選択することが多いです。

五百枚を超えるような長編を、視点人物を交代しないまま一人称で維持するのは、不可能ではないでしょうけれど、かなり戦略を練ったうえでの選択でないと厳しい(=書きにくい)のではないか、と思います。
理由は、繰り返しになりますが、「一人称の語り手が語れる範囲(=視野)は、案外狭い」「そこをクリアしようとすると、かなり手数が必要になってくる」「語り手の内面に深く潜って描写でき、語り手に読者をぐっと共感させることが可能だが、それゆえ逆に、物語に閉塞感が生じたり、『独りよがりな語り手だな』と思われたりする危険性も増す=息苦しく濃密すぎる五百枚になってしまうおそれがある」からです。

一人称の最大の難点は、「この語り手は、いったいだれに向かって、なんのために、どうしてこんなに流暢に語っているのか」という疑問が生じることです。
この疑問を乗り越える方法は、私が思うに三通りあります。

一、疑問自体を無視する(=小説の技法、「お約束」なのだからと割り切って、深く考えないようにする)。
二、「手紙」「手記」「なんらかの告白」など、だれかに向かって書いた、または語ったものである、という体(てい)にする。
三、上記以外の新機軸を打ちだす。←おいらはいまのところ思いついてませんが。すまぬ。

あらら、もう枚数オーバーしてしまった。このコーナーの第二回で、「枚数を正確に把握する力を身につけよ」なんて、えらそうなこと言ったくせに、ちっともできてないじゃないか自分。すまぬ。

というわけで、「三人称」については、次回考えてみます。え、「二人称」? めったに使われないから、スルーでいいじゃろう(いいかげん!)。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「あの家に暮らす四人の女」(中央公論新社)。

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