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小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

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第6回「『人称』選びで、キャラクターの魅力をアップ!(三人称編)」

前回は「一人称」について、ざっくり考えてみました。今回はそのつづきとして、「三人称」について、ざっくり考えてみようと思います。

ざっくりでいいのか? いいのです(自問自答)。人称についてあまり考えすぎると、私などは「ぎゃーっ」と叫んで、なにも書けなくなってしまいます。「どんな人称を選択しようと、小説の語りってどうしても『人工的』なものなんだな」ということがひしひしと感じられてくるからです。

だって、実際に虫になったひとが一人称で、「朝起きると、私は虫になっていた」と、だれに対してとも知れぬ状況説明をするなんてこと、現実にありえるでしょうか? 大変な事態に直面してるんだぞ! そんな説明をしてる場合じゃないだろ! てなもんですよ。

三人称を選んだとしても、同じことです。私(三浦)がいまこの瞬間虫になったとして、「朝起きると、三浦は虫になっていたのだった」って、そうナレーションしてるおまえはだれなんじゃい! どっかから見てるんなら、説明してないで助けてくれよ! てなもんですよ。

どんなに「自然さ」を心がけても、小説の語りはどうしても人工的にならざるをえない、と思うのは、こういう点です。一人称を選んでも三人称を選んでも、やっぱりなにかが「変」なのです。
だから、人称について考えすぎると、「変さ」が気になって気になって、小説を書けなくなってしまいます。とはいえ、それぞれの人称の特長や利点をよく把握し、書こうとしている小説にふさわしい人称を選ぶのは、とても大切なことです。うーん、どうしたらいいのか……。しょうがない、「ぎゃーっ」となる寸前で、考えるのを適当に切りあげてください。塩梅がむずかしい要求をしてすみません。

というわけで、三人称についてざっくり考えます。

【三人称】
「A男は」とか「三浦は」とか、登場人物の外側からというか、客観的(とされる)視点に基づいて物語が語られていきます。三人称はおおまかに言って、「単一視点」と「多視点」にわけられるでしょう。現代の(特にエンターテインメント)小説で主流な三人称は、「単一視点」のほうだと見受けられます。

「三人称単一視点」は、以下のようなものです。


 夜道をほろ酔い加減で歩いていたA男は、だれかにつけられているような気がして、ふと口笛を吹くのをやめた。なにげないふうを装って歩きつづけながら、耳をそばだてる。やはり勘違いではない。背後で足音がする。A男は思わず早足になった。足音も同じくリズムを速める。A男は意を決して振り返った。街灯の光が届かぬ暗がりに、男が立っていた。シルエットから、B男だとわかった。B男は、にやりと笑ったようだった。

つまり、A男という一人の人物にカメラを固定する方法です。基本的には、A男の目に映るものを描写し、断定的に書けるのはA男の心情のみ、ということになります。
「B男は、にやりと笑った『ようだった』。」となっている点にご注意ください。A男にカメラが固定されているので、B男が本当に笑ったのかどうか、断定できません。暗がりで、細かい表情まではA男には見えなかったからです。

三人称単一視点の難点は、「これって一人称とどうちがうんじゃい」というところです。主語の「A男は」を「俺は」にしても、べつにかまわんのじゃないか、との疑念は拭いがたい。
利点は、「しかし一人称よりは、視点が切り替わったことがわかりやすい」です。一人称だと、一章では「俺」が語り手、二章では「僕」が語り手、と視点が切り替わった場合、「俺とか僕とか紛らわしい! いったいおまえら、だれなんだ!」と読者が混乱しかねません。それを防ぐために、「俺」に対して「おーい、三浦ー」と友だちが呼びかけるシーンを作ったり、「僕」に対して「はい次、松浦。答えて」と先生が授業中に指名するシーンを作ったりと、余計な手間がかかります。

三人称単一視点だと、その問題はなくなります。一章では「三浦は」、二章では「松浦は」と書いてあるのですから、読者は飲みこみやすいです。
また、一応は三人称ですので、急にカメラがA男から離れ、俯瞰や遠景で描写をしても許容されます。たとえばさきほどの例文の末尾に、


 住宅街の真ん中で対峙した二人の男を、目撃するものはだれもいない。

という一文を加えたとしても、あまり違和感はないはずです。しかし、「A男は」をすべて「俺は」に置き換え、一人称にした場合、この一文を加えると、「なんで『俺』は急に、ナレーションじみたことを言いだしたんだ。だいたいなんで、『目撃したものはだれもいない』と『俺』が断言できるんだ」と思えてしまいます。

三人称単一視点は、一人称と極めて近しい語りですが、一人称よりは描ける範囲が広いのです。また、一人称と同じく、心情を深く掘り下げることにも向いていると思います(基本的には、断定的に描けるのはカメラを固定させた人物〔=例文だとA男〕の心情のみ、という制約はありますが)。
一人称と三人称の「いいとこどり」といった面があるので、三人称単一視点を採る小説が多いのでしょう。私自身も、長編を書く場合は特に、三人称単一視点を選ぶことが大半です。

では、「三人称多視点」はというと、こういう感じです。


 夜道をほろ酔い加減で歩いていたA男は、だれかにつけられているような気がして、ふと口笛を吹くのをやめた。なにげないふうを装って歩きつづけながら、耳をそばだてる。やはり勘違いではない。背後で足音がする。A男は思わず早足になった。つけていることをA男に気づかれたと察し、B男も慌てて歩調を速める。とうとう意を決して振り返ったA男に向かい、B男はにやりと笑った。B男は街灯の光が届かぬ暗がりに立っていたので、それがだれなのかA男にはわからなかった。だが、悪意に満ちた笑みの気配だけは、充分に伝わってきた。

つまり、カメラを特定の人物に固定させず、A男の心情や目に映る風景も、B男の心情や目に映る光景も、特に制約なく描く方法です(「神の視点」と呼ばれたりします)。
この場合、例文の末尾に、


 住宅街の真ん中で対峙した二人の男を、目撃するものはだれもいない。

という一文を持ってきても、当然ながらなにも違和感はありません。

三人称多視点の難点は、「A男は」とか「B男は」とか、主語が多くなりがちで、なんか洗練されてないように見える危険性がある、というところでしょうか。また、最近の主流が三人称単一視点なので、三人称多視点を選択すると、「視点がブレてる」と読者に誤解されてしまうおそれもあります。

しかし、ちょっとまえ(といっても、大正だったり昭和だったりですが……)の小説を読むと、けっこう三人称多視点が多い気がします。しまいには、「作者もA男の気持ちがとてもよくわかるのだが、閑話休題。先般、銀座に赴いたところ……」などと、突然作者自身が登場し、ストーリーとはまったく関係ないことを小説内で語りだしたりして、奔放です。でも、こういう奔放さ、個人的には好きで、たまに三人称多視点を採ってしまいますね。

三人称多視点の利点は、やはり描ける範囲の抜群の広さ、奔放なまでの自在さでしょう。ものすごーくカメラを引いて描くことも、いろんな登場人物の内面にふかーく潜ることも、自由にできます。もっと三人称多視点で書く修業をし、いろいろ試みてみたいなあ、と私はひそかに思っています。

単一視点か多視点かにかかわらず、三人称の最大の難点は、結局のところ一人称と同じです。つまり、「この小説を語っているのは、だれなのか。そして、だれに向けて語っているのか」ということです。
「A男に固定されたカメラ(=単一視点)」または「あらゆるものを見ている神の視点のごときカメラ(=多視点)」を通して、三人称の小説は物語られていくわけですが、その「カメラ」って、いったいだれの「目」なのでしょうか。登場人物の背後霊なの? 神なの? 作者なの? なんでそんなに親切に、読者に向けて(?)いろいろ説明したり描写したりしつつ話を展開させてくれるの?

この疑問を乗り越える方法は、私が思うに三通りあります。

一、疑問自体を無視する(=小説の技法、「お約束」なのだからと割り切って、深く考えないようにする)。
二、カメラの保持者をどこかの段階で明らかにする(=「実はA男が過去を回想して三人称で書いたのが、この小説なんですよ」とか「実はこの小説を語っていたのは、神さまなんですよ」とか)
三、上記以外の新機軸を打ちだす。←おいらはいまのところ思いついてませんが。すまぬ。

みなさん、「ぎゃーっ」て叫びたくなってませんか? 大丈夫ですか? 私はもう限界です。ぎゃーっ。
人称め、貴様について考えるのは、これぐらいにしといてやるぜ。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「あの家に暮らす四人の女」(中央公論新社)。

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