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小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

「小説を書きたい」すべての人必見のスペシャルコンテンツ登場!
「短編小説新人賞」の選者として、毎回投稿作品に対し、厳しくも愛情あふれるコメントを寄せてくれる
三浦しをん先生が、小説を書くために押さえておきたい「お作法」を教えてくれます。

第8回「『行アキドーピング』に要注意。一行アキは必要最小限で!」

前回述べたとおり、「一行アキ」は、

  • 一、語り手が変化したことをわかりやすく読者に示すため。
  • 二、場面転換(あるいは、時間がある程度経過)したことをわかりやすく読者に示すため。

に必要最小限入れるもの、というのが、基本的な「お作法」です。

ところが投稿作では、「一行アキ」ではなく、「二行アキ」だったり「三行アキ」だったり、なぜか「二行アキと三行アキが混在」していたり、といったケースも見受けられます。

「二行アキと三行アキを使いわけているからには、そこには作者のなんらかの目論見が隠されているのだろう」と、行アキの意図を汲み取らんと目を皿のようにして拝読するのですが、たいがい目論見も法則性も見出せません。なんだよ、そのときのフィーリングで、適当に二行アキにしたり三行アキにしたりしてるだけなのかよ! そういう自由奔放さ、個人的には好きだぜ。

でも、一応は小説表記の「お作法」に則り、意味なく「二行アキ」とか「二行アキと三行アキが混在」とかにはしないようにしましょう。基本はあくまでも、「一行アキ」。文章の精度のみならず、行をどこでどういうふうに空けるかまでも、万全に考えつくし、神経を払う。そういう姿勢で原稿に取り組むのが大切です。

もちろん、なんらかの意図に基づく、作品にとって効果的な選択であるならば、何行空けたってかまわないのです。でも、「三行空けたら、余韻が際立つかも」といったように、行アキに頼りすぎてはいけません。余韻は、行アキではなく文章自体から醸しだされるものなのです。行アキでドーピングしようとしても、失敗に終わるだけでなく、体に悪いです。
「体に悪い」というのはもちろん比喩で、「文章の精度がいつまでも上がらないままになってしまう」ってことです。そしてその事実から目を背け、ますます行アキを増やすことでなんとかしようとする、ドーピング地獄にはまる危険性大。お互い、気をつけましょうね……!

さて、「基本は一行アキ」を守ったとしても、その「一行アキ」をあっちにもこっちにも入れてしまっては、これまた意味がない。「一行アキ」が本来持っている効果が、薄れてしまうからです。
拙者が思うに、投稿作でよく見かける「一行アキ」の乱用パターンは、以下のように分類できます。

  • 一、法則性なく、感覚のみを頼りに、のべつまくなしに「一行アキ」を入れる。
  • 二、「目立たせたいと思う一文」の前後に「一行アキ」を入れる。
  • 三、会話やシーンが一段落するたびに、(語り手は変わっていないし、作中の時間もそれほど経過していないのに)「一行アキ」を入れる。

「一」のケースはたぶん、「一行アキを入れないと、わかりにくいし読みにくいんじゃないかな」と、作者に自信がないゆえに生じるのでしょう(「一行アキを入れて、余韻を醸しだしたいな」と思うのも、文章に対する自信のなさの表れです)。書いているうちに不安に駆られ、あちこちに「一行アキ」を入れてしまう。
でも、不安にならなくて大丈夫です! ご自分がお書きになる文章に、もっと自信を持ってください。情熱と客観性を持って書いた文章なら、「一行アキ」を乱用せずとも、必ず読者の心に届きます。
ご自分の文章と読者の読解力を信じて、「一行アキ」を無闇に多用することなく、堂々とつづけて書きましょう。むしろ、「一行アキ」が多すぎると、「この『一行アキ』の意味は……?」と読者はいちいち考えなきゃならんので、物語の流れが途切れる原因となってしまいます。

「二」のケースは、インターネット上で小説を発表するかたが多くなってから増えた気がします。
前回述べたとおり、サイトなどで小説を発表し、それを読むときは、行アキが多いほうが見やすいというのはたしかです。サイト用に行アキを増やすのは、媒体に合わせた表現方法だと思うので、一概に否定はできません。
ただ、「行アキ=息つぎ」の多用に慣れてしまうと、「文章のみで勝負する」という小説の根幹部分が弱くなり、特に長編に対応できるような文章力、描写力、構成力がなかなか磨かれなくなってしまうのではないか、と心配です。

目立たせたい一文がある場合は、「一行アキ」ではなく、改行で対応すれば充分です。というか、改行などなくてもきらめいて見えるような、キメの一文を書くよう心がけましょう。小説は、キメの一文だけで成り立っているものではありません。そこに至るまでの物語の流れ、文章の緻密な積み重ねによって、なんでもないような一文が、キメの一文に変化する。それを味わうのが、小説の楽しみのひとつではないでしょうか?
「一行アキ」には、物語の流れをぶつぶつと分断してしまう弊害もあります。目立たせたい一文の前後に「一行アキ」を入れることによって、せっかくのキメの一文が、物語から隔絶した「無味乾燥な標語」のように見えてしまう、ということになったら、だいなしです。

「三」のケースは、「文章への自信のなさ」と「(会話やシーンが一段落したことを)目立たせたい」の合わせ技で生じるのかなと思います。
「文章のみでは、会話やシーンが一段落したことが読者に伝わらないんじゃないか」→「じゃあ、一段落したことを目立たせるために、一行アキを入れよう」。思考がこういう筋道をたどり、「一行アキ」多発へと至るのではないか、と推測するのですが、合ってますか?
もし、私の推測どおりなのだとしたら、「心配はご無用です!」と申しあげたいです。繰り返しになりますが、ご自分の文章に自信を持ってください。

「一行アキを入れれば、伝わりやすいかな」と、自作と読者のことを考えて書く姿勢は、とても大事だし、素晴らしいと思います。けれど、伝わりやすくするための解決策を、「一行アキ」だと考えてしまうのは、明確に誤りだとも思います。
解決策は、たったひとつです。自作と読者のことを考えて、「文章を磨く」。それ以外にありません。
そうやって文章を磨いていけば、必要最小限の「一行アキ」を効果的に入れる、「ここだ!」というポイントもおのずと見えてくるようになるはずです。また、長編を書いても息切れしない文章力も身につきます。
「一行アキ」は、時代とともに増加傾向にあるようです。明治の文豪などの小説を読んでみてください。「一行アキ」はほとんどなく、改行すらも現代の小説よりずっと少ないです。でも、ちゃんと伝わってくるし、おもしろい。読みやすさや伝わりやすさに、「一行アキ」は必須の条件ではないんだな、ということがわかります。

「小説は文章のみで勝負するもの」という基本を忘れ、「行アキドーピング」に陥ってはいけないと、私は自分に言い聞かせるようにしています。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「あの家に暮らす四人の女」(中央公論新社)。

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