かける

「書きたい」あなたを応援するスペシャルコンテンツ

小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

「小説を書きたい」すべての人必見のスペシャルコンテンツ登場!
「短編小説新人賞」の選者として、毎回投稿作品に対し、厳しくも愛情あふれるコメントを寄せてくれる
三浦しをん先生が、小説を書くために押さえておきたい「お作法」を教えてくれます。

第9回「小説を書くキモは、【情熱】と【技術・技巧】の配分にあり!」

私の夏は映画『HiGH&LOW』シリーズに捧げられました(唐突)。ていうか、秋の気配が深まりつつあるいまも、『ハイロー(と略させていただきます)』のことばっか考えてて、おかげさまで仕事がまったく手につきません。ありがとう、琥珀さん!

琥珀さんてだれだ、と思うかたもいらっしゃるかもしれませんが、とりあえず私の頭がいい塩梅にアレになってるんだなということが伝われば、それでよいのです。あとは『ハイロー』を見てくださいとしか言いようがない。見ればわかるさ、琥珀さん(をはじめとする登場人物)のすごさが!

『ハイロー』シリーズは、とにかく作り手たちの情熱がびんびん伝わってくる傑作なのだが、型破りな点も相当ある。
具体的に言うと、「どこかで見たような展開や設定」が過剰に投入された結果、「いままで見たことがないようなカオス」が生じている。つまり、部分部分は「型を踏まえている」のだが、型と型のあいだのブリッジがうまく機能していないのか、単純に型の積載量がオーバーしているがゆえなのか(このあたりはカオスすぎて、まだよく分析できていない。すみません)、「は? なんで!?」という展開や時系列の破綻、登場人物の言動に関する呑みこみづらさが多発しているのだ。

そのため、何度見ても(ああ、何度も見たさ)、「このひとたち、なんでこんな大規模な喧嘩をしてるんだっけ?」「スモーキーは結局、雨宮長男の行方を知らなかったってことなの?」「琥珀さんは大事なUSBを持ったまま、海外(って、どこ?)でなにをなすってたんだ?」などなど、汲めどもつきぬ泉のように疑問が湧いてくる。
しかし、そんなことはどうでもいい! いや、常識的な作劇術から考えると、看過できないほどの穴や矛盾があるのかもしれんが、常識なんてク○だ! と私は思いました。それぐらい、『ハイロー』には情熱ときらめきがあふれていて、見るものの脳と心を直撃してくる。素晴らしい。「これだと構成が破綻してしまう……」とか、「つっこまれないように慎重に伏線を張って……」とか、些末な点に汲々とするよりもさきに、創作するにあたって大事なことってあるよなと、改めて教えられた気がします。

このコーナーではずっと、「小説を書くときのお約束」について私なりに考えてきたのですが、そういうのは全部無駄というか、小説家を目指すかたにとって邪魔にしかならなかったのかもしれないと、反省もしました。「型」とかあまり言いすぎると、かえって情熱を削いでしまうのかな、と。

ただ、『ハイロー』を「カオス」などと申しましたが、アクションやシナリオをはじめ、トップレベルのプロが技と知恵を結集し、「カオスだけど、危うい均衡でちゃんと作品として成立させている」のも事実。もし、映画のド素人が情熱のみを頼りに『ハイロー』みたいな作品を作ろうとしたら、目も当てられぬ結果になっただろうと思うのです。
「情熱と技術・技巧のバランスをどう取るべきなのか(作品や作者の持ち味によって、支点の起きどころは変わってくるでしょう)」について考えるうえでも、『ハイロー』は非常に興味深く、学ぶべきところが多いと感じます。個人的には、『ハイロー』のスタッフは「型」を知りつくしており、それを表現する技術と技巧も持っている。つまり、プロ中のプロなんだけど、やっつけ仕事には決してならず、わけのわからん情熱をいつまでも胸に燃やしていることができるひとたちなんだろうな、と推測しています(燃えかたが激しすぎて、ところどころカオスが生じたのだろうなと。それがまた好ましい)。

そう考えると、やはり我々が小説を書く際に、後天的に学習し磨いていくことができるのは、「型」をはじめとする技術・技巧面なのではないか、という気がするのです。情熱(モチベーションや、作品に取り組む姿勢)は、各自で維持し、燃やすほかないのだから!
情熱によって素敵なストーリーや登場人物や設定を思いついたとしても、それを作品として結実させるためには、技術と技巧が必要です。うまく結実させられなかったら、いずれ情熱は衰えていってしまうでしょう。また、情熱を維持しつつも、作品にとって最善のバランスを探る際に道しるべとなるのも、技術と技巧だと思います。「文章のテクニック」という意味だけでなく、「物語の型やお約束」も、技術と技巧に含まれます。

毎回、まったくのゼロからストーリーを発想していたら、いずれ限界が来ますし、実はひとの心を打つ物語にはならないのではないか、と私は思っています。
ここがどうもピンと来ないかたもおられるようなのですが、物語には「型(パターン)」があるのです。「こういう登場人物の配置」とか、「こういうエピソードが来たら、次の展開はこうなることが多い」とか(「河原で殴りあったライバルは友情で結ばれる」「戦場で家族の話をしたやつは死ぬ」など、思い当たるふしがおありかと思います)。
こういった「型」はなぜ存在するのかを考え、自作にうまく取り入れると(もちろん、あえて「型」からずらした形で取り入れるのも効果的です)、言葉は悪いかもしれませんが、いちいちすべてをゼロから発想する手間が省け、なおかつ、物語が生き生きと転がりだします。なぜなら物語の「型」には、人類が長年にわたって築きあげてきた、「気持ちいいな」と感じる感情の動きやストーリーの構造が凝縮されているからです。これを利用しない手はありません(特にエンタメ小説においては)。

そして、「型」を利用したがゆえに、「型どおりすぎてつまらん」という事態に陥らないために必要なのも、情熱と技術・技巧です。作り手個々人によって、情熱のありようと、体得したり重視したりしている技術・技巧が異なるから、それぞれの作り手固有の感性や倫理や特徴が作品に反映されるのです。

というようなことを、『ハイロー』シリーズ鑑賞を通して考えたのでした。ありがとう、琥珀さん!

一方、今回の短編選考会で考えたのは、「短編の冒頭をどう書くか」と「比喩表現について」です。これは、「情熱と技術・技巧のバランス」にも関係した問題なので、長くなってしまいますが、もう少々おつきあいください。

今回私は、「投稿作の冒頭を、選評のなかで自分なりに書いてみる」という暴挙に出ました。選考させていただくものとして、これは本来、決してしてはならないことだと、ふだんは自戒しているのですが……。選評のほうにも記しましたとおり、もとの文章が悪いというわけではありません(文章に正解はありません)。作品自体も、惜しくも受賞は逃したけれど、とても心惹かれる世界観で、私はすごく好きです。
「こりゃもう箸にも棒にも……」と思ったら、そっとしておきます。そうではなく、「わかる! 作者や登場人物の気持ちも、描写したいことも、すんごく伝わってくる!」と感じ、興奮したからこそ、「べつの案を具体的に提示することで、もしかしたら今後の参考にしていただけるかも……」と、あえて暴挙に出てみました。作者のご寛恕を願うばかりです。

どうして今回、「自分なりに書いてみる」などという振る舞いに及んだのか。前述のとおり、「作品が魅力的だったから、興奮のあまりつい……(すみません)」という理由が一番ですが、「短編の冒頭をどう書くか」と「比喩表現」という、私が常日頃、自作を書く際に頭を悩ませている点が凝縮されていて、「おお、同志!」と勝手に反応してしまった、という理由もあります。

わたくし、絶好調のときは、日常生活でも息をするように比喩を連発してしまうらしくてですね(本人に自覚はない)。「うざい」とよく言われるんですよ、ええ、ええ。むろん、小説でも比喩がわりと多いらしく(本人に自覚はない)、「たとえとしてうまくないし、わかりにくい」と思われてんだろうなあと、疑心暗鬼になってるんですよ、ええ、ええ。
だから、慎もう、なるべく比喩は少なめにしようと心がけているのですが、無自覚なことも手伝って、どうしても迸ってしまう! だって比喩が、私の情熱の表れなんだもの! おまえさまは情熱を理性で完全に抑えられるとおっしゃるのか! どんな情熱だそれは!(逆ギレ)

十五年以上まえに書いた、『月魚』という小説があるのですが、機会があったら、その冒頭をご覧ください(角川文庫になってるよ。小声でCMでした)。私もいま、「もしや……」と思って、十年以上ぶりに冒頭を読んでみたのですが、顔面から火を噴きました。
三行目あたりで、すでに比喩が炸裂してます。そして六行目で、ドヤ顔の比喩が! むろん、七行目も比喩でレスポンス! ノッてるかーい! いえーい!(←って、これも一種の比喩か。我ながら病が深い……)

いや、がんばっているよ、当時の自分。おまえのがんばり、だれも褒めてくれないだろうから、せめて俺だけは抱きしめてやるぜ!
しかしですね、書いてるときの情熱が去り、時間を置いて冷静になった目で見ると、これはやはりちょっとやりすぎたかな、という気がするのです。

比喩とはつまり、「まわりくどい表現」です。比喩によって詩情がかきたてられたり、イメージが広がったり、描写に重層性が生じたりといった、プラスの効果も大きいですが、連発すると当然ながら効果が薄れる。
小説の冒頭(特に短編)は、スムーズに作品世界に入ってもらうことが肝心ですから、私のようにドヤ顔の比喩を連発するのは、避けたほうが無難です(ううう、過去の自分よ、聞いていますか……)。あくまでも、「基本的には」ということで、作品の導入として効果的な比喩を思いついたのなら、もちろん使ったほうがいいですが。

ではどうして私は、冒頭から比喩を連発してしまったのか。答えはひとつ。情熱を抑えきれなかったからです。早い話が、「気負い」ですね。

小説の冒頭は、どうしても重くなる傾向にあります。書き慣れていないうちは、特にそうです。脳内に渦巻くストーリーや登場人物や思いを、これからいよいよ、文章にしていく。うまくいくか不安もあるし、早く文章にしないとせっかくのアイディアが逃げていってしまいそうであせるし、なによりもわくわくが止められません。あと必然的に、冒頭には、描写を通してさりげなく説明しなきゃいけない設定などがいっぱいある。
結果として、冒頭はどうしても重厚というか、密度が過度に高くなりがちなのです。これはもう、読者としても書き手としても、小説の冒頭は絶対そういう傾向にあると、経験則から断言できる!

渦巻く情熱が濃縮されたがゆえの、「冒頭の重さ(比喩が好きな私のような書き手の場合、そこに比喩の連発も加わる)」は、自分をかばうわけじゃないですが、好ましいです。情熱はないよりもあったほうがいいに決まってるからです。ただ、「冒頭重厚派」は、「情熱の配分を誤り、冒頭で使いはたしてしまって、後半になるにつれ息切れする」という罠に陥りがちなので、要注意です。
情熱を正しく配分するためには、経験と技術・技巧が必要です。とはいえ私は、いまだにこれがうまくできないのですが。しかたなかろう。おまえさまは情熱を理性で完全に(以下略)!

とにかく、コツは肩の力を抜くことです(ぼんやりしたアドバイス)。放っておいても、冒頭は特に気合いが入るものですから、「ぶらぶら戦法で行くぜ」ぐらいの気持ちで大丈夫です。ただし、パンチは鋭く! 気持ちはリラックスさせつつ、相手の隙を見て鋭いパンチを繰りだすのが、ぶらぶら戦法です。
パンチとは、端的に言えば最初の一文です。短編は特にこれが大事で、「さりげない一文のようでいて、『どういうこと? なにが起きる(起きてる)の?』と読者に思わせる」ことができたら、もう勝ったも同然です。なにに対する勝利かというと、この御しがたい情熱ってもんに対してさ。あとは自身の情熱と仲良くつきあいながら、自分のペースで最後まで書き進んでいけばいいのです。

そんなすごい「最初の一文」を、どうやって思いつけばいいのかって? わからん! わかってたら、俺もうとっくに傑作短編を書けている!
情熱と技術・技巧のバランスを取るのは、何度試みても正解がなく、むずかしいことですが、それだけ追究しがいがあるとも言えます。いつか満足のいく小説を書ける日が来るかもしれない、という希望と期待だけは決して捨てず、お互いに試行錯誤してまいりましょう!

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「あの家に暮らす四人の女」(中央公論新社)。

短編小説新人賞 応募

関連サイト

e!集英社
コバルト編集部ブログ
ウルンジャー書店
マーガレットブックストア
ダッシュエックス文庫
ファッション通販サイト FLAG SHOP(フラッグショップ)