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小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

「小説を書きたい」すべての人必見のスペシャルコンテンツ登場!
「短編小説新人賞」の選者として、毎回投稿作品に対し、厳しくも愛情あふれるコメントを寄せてくれる
三浦しをん先生が、小説を書くために押さえておきたい「お作法」を教えてくれます。

第12回 「読者に『このセリフ、だれがしゃべってるの?』と思わせないための戦法は?」

 今年もまた、花見をせぬうちに桜が散っていきます。黄色い粒の襲撃から身をかわすため、仕事を口実に家に籠もっていたのがいけないのですが、気づけば一週間ぐらい、ほとんどだれともしゃべっていない。
 このままでは、会話のお作法を忘れてしまうのではないか? もともと会話をする相手がそんなにいないから、作法を忘れるのはまあいいとして、会話文を書けなくなってしまうのではないか?
 そうなったら、おまんまの食いあげ! それは困るので、今回は「セリフの処理」について考えてみます。

 以前に私は、「最近の応募作を拝読していて気づいた傾向」として、「一行アキの多用」を挙げました。加えてもうひとつ挙げるとしたら、「だれのセリフなのかがわかりにくい会話文がけっこうある」です。
 どうすれば、セリフの発言者が登場人物Aなのか、あるいはBなのかを、はっきりさせられるのでしょうか。
 一番簡単な解決策は、「と○○は言った。戦法」です。


「おはよう。朝飯食べる?」
 とAは言った。
「いらない。二日酔いでそれどころじゃない」
 とBは言った。

 アホか、とお思いでしょうけど、まじで有効なんだって、「と○○は言った。戦法」は! これじゃあまりにもあんまりだ、と思ったら、ちょっと変化をつけりゃいいのです。


「おはよう。朝飯食べる?」
 とAは言った。
「いらない。二日酔いでそれどころじゃない」
 と、Bは寝癖でぼさぼさになった髪の毛を整えながら答えた。

「と○○は言った。戦法」に関しては、藤沢周平の小説が非常に洗練されている、と私は思います。
 藤沢周平の「セリフの処理」は、私の分析(?)では、オーソドックスな部類に入ります。引用ははばかられるので、以下は私の捏造文章ですが、形式は藤沢周平の「セリフの処理」に則っているつもりです。


「おはよう。朝飯食べる?」
 Aはフライパンに卵を割り落としながら尋ねた。透明だった卵の白身部分が、周縁からじりじりと白濁していく。
 Bはそのさまを、Aの背後からぼんやりと眺めた。
「いらない」
「どうして」
 とAは言った。
「二日酔いでそれどころじゃない」
 Bは寝癖でぼさぼさの髪の毛を整えた。

 私の文章なせいで、台無し感がありますが……。つまりですね、藤沢周平の「セリフの処理」は、

「セリフ」
 Aは~(地の文=描写)。

 が基本なのですが、ここぞというところで、

「セリフ」
 とAは言った。

 が来るのです。「と○○は言った。戦法」が炸裂です。これによって、アクセントがつくし、セリフの発言者がだれなのかも、よりはっきりします。読みやすくわかりやすいうえに、テンポがいい。私なぞが申すことではありませんが、「まじでうますぎるな、周平!」と感動します(作品の内容や文章の味わいが素晴らしいのは、もちろん言うまでもありません)。

 あとね、「宝塚戦法」ってのもあります。宝塚の舞台を見ていて気づくのは、「セリフのなかで相手の名をよく呼ぶ」ということです。


「待ってくれ、アンドレ!」
「どうした、オスカル」

 みたいな感じですね(上記のセリフも、私の捏造です。念のため)。海外の翻訳小説を読んでいても、散見される手法です。これは合理的! 名前を呼びかけることによって、最初のセリフの発言者はオスカル、二番目のセリフの発言者はアンドレなんだな、とすぐにわかります。
 アホか、とお思いでしょうけど、まじで有効なんだって、「宝塚戦法」は!
 いまさらですが、藤沢周平や宝塚やオスカルやアンドレはアホじゃありませんからね。アホがいるとしたら、それは私だ! すみません、せっかくの戦法(?)を、アホな調子でしか説明できなくて。

「宝塚戦法」は、多人数の会話文が連続するとき、とっても使える戦法です。さらに、「と○○は言った。戦法」と組みあわせれば、鬼に金棒。


 さて、狂乱の酒宴から一夜明け、A、B、C、Dはゾンビのごとく寝床から這いだした。
「だれだよ、とどめに『鬼ころし』の封を開けたのは」
 とBは言った。
「Bだ」
 Bを除く全員が、冷静に指摘した。
「なんで止めないんだよ!」
「わははー、典型的な逆ギレ」
「うん、Cは笑ってる場合じゃねえな。顔が真っ青だから、座ったほうがいい。そもそも、四人の宴なのに日本酒が三升、ワインが五本、ウイスキーが一瓶用意されてたのがおかしい、と俺は思うんだが」
「ちょっと待ってくれ、D」
 Aは首をかしげる。「『おかしい』というのは、『三も五も一も、四で割り切れないじゃないか』ということか?」
「ちげえよ! 量だよ、量!」
「って言いつつ、Dが半分ぐらい飲んだじゃん」
 Cはよろよろとダイニングの椅子に腰を下ろした。
「うるせえな。用意されてたんだから、そりゃ飲むだろ」
「まあまあ。朝飯食べる?」
 Aは率先して台所に立ち、フライパンを手にする。残りの三名は顔を見あわせた。
「あいつの食い意地って、相当だと思わないか、D」
 とBは言った。
「ああ。食い意地も相当だが、肝臓の頑丈さも驚くべきものがある」
「俺は決心した。もう一生飲まない」
 Cは力なくうめき、ダイニングテーブルに突っ伏している。
「その決心を聞くの、二十八回目だぞ」
 Dもがんがん痛むこめかみを揉んだ。
「なんだなんだ、だらしないなあ」
 Aはフライパンに卵を割り落とした。「おまえは食うだろ、B」
「いらない。いま食ったら絶対吐く」
 Bは寝癖でぼさぼさの髪の毛を整えた。

 ほかにも、「登場人物それぞれに、異なる自称を割り振っておく戦法(私、俺、僕、拙者など)」「登場人物それぞれに、さりげなく異なる口調を割り振っておく戦法(たとえば、Aは比較的丁寧なしゃべりかた、Dは比較的べらんめえなしゃべりかた、など)」といったように、「セリフの処理」にはさまざまな手法や技があります。

 小説を読むとき、「この作者は、どういう戦法を使ってるのかな」と、気をつけて見てください。なるべく分析・研究する視点で読んでみるのは、とても大切です。そして、「いいな」「だれがしゃべってるのか、わかりやすいな」と思う戦法を発見したら、自分になりに工夫して取り入れましょう。

 どんな「セリフの処理」をするか、自分のなかである程度法則を決めておくのも、大切かもしれません。私が見るところ、「セリフの処理」に関しては、大半の小説家に、それぞれ決まった法則というか癖があります(もちろん、作品の色合いなどによって、がらりと「セリフの処理」のしかたを変えてくるケースもありますが)。たぶん、各人のなかで、「セリフは基本的に、こう処理しよう」という方針を定めているのだと思います。
 なぜかといえば、ひとつのセリフを書くごとに、「ええと、このセリフはどういうふうに処理しようかな」といちいち考えていたら、執筆がさきに進まないからです。また、一作のなかで、「セリフの処理」の方針がころころ変わったら、読者の混乱を呼び、「だれのセリフなのかわからん」という事態になってしまうからです。

 法則や方針と言うと、「なんかシステマティックだなあ」と感じるかたがおられるかもしれません。でも、読者への伝わりやすさを第一とするなら、「セリフの処理」について、自分のなかである程度の法則や方針を作るのは当然だ、と私は考えます。また、試行錯誤していればおのずと、「私はこうすると書きやすいし、セリフの発言者がだれなのかがわかりやすいと思うな」という法則や方針が、自分のなかで作りあげられていくものなのではないか、とも思います。情熱とか思いとかは、セリフの中身自体、あるいは地の文にこめればいいのです!

 いろんな小説を読んで、「セリフの処理=どうすれば、だれのセリフなのかがはっきりするのか」を、ぜひ研究してみてください。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「あの家に暮らす四人の女」(中央公論新社)。

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