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小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

「小説を書きたい」すべての人必見のスペシャルコンテンツ登場!
「短編小説新人賞」の選者として、毎回投稿作品に対し、厳しくも愛情あふれるコメントを寄せてくれる
三浦しをん先生が、小説を書くために押さえておきたい「お作法」を教えてくれます。

第18回「粘り強く『描写』を重ねることが、あなたとあなたの小説を成長させる」

おいらもうわくわくが止まらねえだ! もうすぐ三代目J SOUL BROTHERSのドームツアーがはじまるから、小説のことを考えてる場合じゃねえだ!
 まあ、私が申しこんだチケットは全滅し、「同行者登録」をしてくれた友だちのおかげでコンサートに行けるのですがね。ものすごい倍率なのだろうなと推測されるが、それにしてもわたくしめのクジ運の悪さ、尋常じゃない。そしてこの連載、途中から「我、EXILE一族にいかにしてはまりしか」のレポートみたいになっちゃってるけど、いいんだろうか。よくない。

 というわけで心を入れ替え、今回も真剣に小説について考えてみたいと思います。さんだいめ……。いや、魂が浮遊してなどいない! 決して!

 応募作を拝読していて、「惜しい! もうちょっと気をつけると、もっとよくなるはずなのだが」と感じる点があります。それが、「『描写』ではなく、『説明』になってしまっている」文章です。ただ、なにが「描写」で、なにが「説明」なのか、具体的な事例を挙げて解説するのがむずかしく、歯がゆい気持ちでおりました。
 でも、うんうんうなっていたら、ついにぴったりの事例を思いついた!

 A子からいったいどんな話をされるのだろうと、B男は放課後を待ちかねる思いで給食のカレーライスをかきこんだ。

 ここは保健室。B男がしずしずとドアを開けると、A子はすでに窓際のベッドに腰かけ、手持ち無沙汰そうにスマホをいじっていた。
「話ってなんだよ」
 とB男は言った。


 問題は、一行アキのあとの「ここは保健室。」です。場面転換したときなどに特に散見されるのですが、登場人物がどこにいるのかを手っ取り早く読者に伝えようとして、「ここは保健室。」という一文をぶっこむ。これだと単なる「説明」になってしまい、小説としての雰囲気とか味わいとかリズムとかがぶち壊しです。基本的には、丁寧な「描写」をさりげなく重ねることで、場所や心情を伝えていくほうがいいでしょう。

 (前略)カレーライスをかきこんだ。

 B男がしずしずと保健室のドアを開けると、A子はすでに窓際のベッドに腰かけ、手持ち無沙汰そうにスマホをいじっていた。校庭からは、サッカー部が練習しているのだろうか、「ボールはまだ死んでいない……!」「って言ってる暇があったら、おまえが拾いにいけよ」などと笑いあう声が聞こえる。西日がA子の背に射し、柑橘類の妖精がまとわりついているかのようだ。
「話ってなんだよ」
 とB男はわざとぶっきらぼうに言った。


 ……この例文も、「いかがなものか」ですね。すみません。しかし、安易に「ここは保健室。」と「説明」しなくても、もっとスムーズに「保健室にいる」ことを伝えられるのはおわかりいただけたかと思います。
 また、さりげなく室内やA子がどんな様子なのかを「描写」することで、だいたいの時刻とか、B男がA子にどういう期待(「告白されるのかも……?」)や感情(「かわいくて魅力的だな」)を抱いているのか、読者に感じさせられます。例文がまずいせいで、「感じられねえよ!」と思われるでしょうけれど、そこは実作するときに各人でがんばってください。すみません。

 さらに言えば、「ボールはまだ死んでいない……!」云々という、サッカー部員のやりとり。これを入れることによって、今後の展開を暗示し(B男の期待に反して、A子の「話」とは告白でもなんでもなかった。けれど諦めず、果敢に「ボールを拾いに」いく、つまりA子にアタックをかけはじめるB男)、伏線を効かせたり、展開と呼応させたりする余地が生じるのです(たとえば、サッカー部員が恋のキューピッド役になってくれて、「ボールは拾いにいってなんぼだぞ!」と励ます。それでハッとなり、「そうだ、あのとき保健室でも、その言葉を聞いたじゃないか」と思うB男、など)。
「ここは保健室。」という無機質な「説明」ですませては、小説が縮こまってしまいます。作者自身も思っていなかったような「広がり」は絶対に生じませんし、「のちの展開をよく考えて、常に最善の文章表現を心がける」という習慣や思考回路も身につきません。楽だからといって「説明」に逃げるのは、百害あって一利なしの省エネです。
そうではなく、「まちがった漢字変換をしないように、登場人物の名前をあらかじめパソコンに単語登録しておく」といった局面で省エネしてください。

「説明」が混入すると、小説が洗練されていないように見える危険性が高まります。なぜかと言えば、「小説が本来的に持っている『視点』の問題」が際立ってしまうからです。
 この連載の第五回、第六回で、人称(視点)について述べたので、詳しくはそちらを参照していただければと思いますが、一人称だろうと三人称だろうと、小説は、「だれが、だれに向かって、こんなに理路整然とストーリーを語っているのか」という問題から逃れられません。極めて人工的な「語り」で成立しているものなのです。
 人工的な「語り」を、自然なものであるかのように見せるためのテクニックのひとつが、「描写」だと言えます。
「ここは保健室。」と「説明」してしまうと、途端に、「いや、だれが『ここは保健室。』って言ってるんじゃい! 急に作者が出てきて、読者に教えてくれてるってわけか?」と興ざめでしょう。作者が作品の背後に身をひそませ、なるべく読者に存在を意識させないようにしながら、「登場人物がどこにいて、なにをし、なにを感じたりしゃべったりしているのか」をさりげなく伝えるために、「描写」が必要になってくるのです。

 コバルト文庫では以前、小説の一行目からいきなり、

 あたし、花子。十四歳。


 と「説明」から入る手法がよく見られました。これは大発明で、主人公がどういうひとなのか手っ取り早くわかるうえに、一人称なので読者に語りかけているように感じられて、一気に身近な存在になるという効果があります。
 けれど現在では、この手法は「やや古い」と読者に思われてしまうおそれがあります。また、「なぜ主人公は、見も知らぬ読者である私に対し、こんなに理路整然と話しかけてくるのか」という疑問からは、究極的には逃れられません。「小説とは、やはり人工的な『語り』なのだなあ」と読者が我に返ってしまわないように、この手法を採るならば、「主人公が読者に語りかけている」という体裁を徹底して貫かなければなりません。そうすると、書き手としては少々不自由に感じられる点も出てくるでしょう。そのため私は、「よほどの戦略や目論見がないかぎり、小説は『説明』ですませるのではなく、『描写』を重ねたほうがいい」と考えています。

 とはいえ、すべてを「描写」してしまうと、しつこくなるし、話がさきに進みません。匙加減が非常にむずかしいのですが……。
 たとえばあるエッセイで、私は締めの一文を、

 忘却を許さず、夏の空は今年も青い。


 としました。「青い」は単なる「説明」です。しかしこれは、原民喜の小説『夏の花』(広島の原爆の話)についてのエッセイだったので、くだくだしい描写は不要と判断しました。「青い」と書けば、その青さについて、読者はきっとさまざまに思いめぐらしてくださるはずだ、と。エッセイではなく小説に関しても同様です。場合によっては、あえて「説明」ですませることで余地を生じさせられると思います。
 もちろん私も、「これは『描写』ではなく『説明』になってしまってますね」と指摘されたことがあります。はじめて書いた小説(『格闘する者に○』)の原稿を、当時お世話になっていたエージェントのかたが読んでくださり、そうおっしゃったのです。正確な文章は忘れましたが、こういう感じの箇所でした。

 外はいいお天気だというのに、私はこうして足の痺れと戦っている。窓が切り取った空をぼんやりと眺め、それから室内に視線を戻した。


「『いいお天気』が問題です」と指摘を受け、「そうか、小説ってのは『描写』が肝心なんだな」と気づくことができました。直して、実際に本として出版されたのは、こういう文章です。

 外は五月晴れというのが本当にふさわしい、「宇宙直結」のお天気だというのに、私はこうして足の痺れと戦っている。窓が切り取った、冷たいほどに青く見える空をぼんやりと眺め、それから室内に視線を戻した。


 いまになってみるとあんまりいい「描写」とも思えませんが、修正した原稿をお見せしたところ、エージェントのかたは、「そうです! こういうことです!」ととても喜んでくださいました。褒めてのばす派。
 以降、「『面倒だな』と逃げたくなっても踏ん張って、なるべく的確に、さりげなく、いい塩梅で、『描写』を重ねよう」と心がけています。繰り返しになりますが、最適な「描写」を考えることは、小説全体に目配りすることにつながります(伏線や暗示)。また、登場人物の心情や行動/動作に思いを馳せたり寄り添ったりする糸口にもなりますし、「読者はこの文章をどう受け取るだろう」と想像する客観性を培うこともできます。

 どうか粘り強く、「描写」を重ねてください。でも、粘り強すぎると「描写」ばかりで話がさきに進まず、くどくなってしまうので、さりげない塩梅を探ってください……。私自身だってできていないくせに、むずかしい要求をしてしまって申し訳ないのですが、たとえるなら、「あれ? この納豆、あんまり糸を引かないな」というぐらいの塩梅です。って、それ、発酵を通り越して腐っとるから! 食べたらおなか壊す納豆だから!
「描写」の塩梅について考えるのがあまりにもむずかしすぎて、的確な比喩すら思いつけなくなってしまいました。「比喩の三浦」と呼ばれる俺としたことが……! だれも呼んでない。
 とにかく、過剰に描写して「納豆の糸引きが強すぎて三日間ぐらい口のなかがねっちりしてる」とか、説明ばっかりになってしまって「納豆の買い置きがなく、泣きながら白米のみをむさぼり食う」などの失敗を、だれしもが経験して大人(?)になるのです。めげることなく、「描写」の度合いや分量や頻度の微調整をしていっていただければと願っております。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「ののはな通信」(KADOKAWA)、「愛なき世界」(中央公論新社)。

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