かける

小説を書いて応募したい方・入選した作品を読みたい方はこちら

「書きたい」あなたを応援するスペシャルコンテンツ

小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

「小説を書きたい」すべての人必見のスペシャルコンテンツ登場!
「短編小説新人賞」の選者として、毎回投稿作品に対し、厳しくも愛情あふれるコメントを寄せてくれる
三浦しをん先生が、小説を書くために押さえておきたい「お作法」を教えてくれます。

第19回 「小説を書くためのココが知りたい!」質問へお返事【書く際の姿勢編】

 Webマガジンコバルトで、小説を書く際のお悩みやご質問を募ったところ、「こういうことで困ってます」「こういうとき、どうしますか」というお声を、ありがたくもたくさんお寄せいただきました。
 お悩みやご質問のみならず、この連載への励ましや拙著へのご感想を送ってくださったかたもいらして、とってもうれしく、また、恐縮もいたしました。私が毎回のように、「もう書くことないだよー」と駄々こねたもんだから、「放っておいては街が破壊されてしまう! この怪獣をなんとか鎮めるためには……、もう質問や感想を送るほかあるまい!」と、お気をつかわせてしまったのだなと、大変面目なく、申し訳なく思っております。みなさま、本当にどうもありがとうございました!
 そういうわけで、怪獣はハッと我に返って暴れるのをやめ、みなさまからお寄せいただいたお声に真剣に目を通しました。怪獣の生態に詳しい古老も、
「『あやつは暴れるか、もりもり昼飯を食いながらワイドショーを見とるかのどちらかだ』と、わしのじいさんの代から言い伝えられてきたもんじゃが……。最近はおとなしく机に向かっておるようじゃな。はて……?」
 といぶかしがるほど、令和初の真剣さを発揮した!
 令和ってまだはじまってまもなくて、「たいした真剣さではないのでは?」と思うかたもおられるかもしれんが、「令和初、令和初」ってワイドショーであんまり言うもんだから(やっぱりワイドショー見てるんじゃないか、というツッコミはよしにしてくれ)、あたしもかましてやりたくなったんですよ。食らえ、令和初の真剣さ! がおー!
 アホなことならいくらでも書ける、という特技を発揮してると、話がさきに進まないな。あ、「話をさきに進められない」というお悩みもありました。それはたぶん、アホなことをついつい書いてしまっているからではないでしょうか。気にせず、存分にアホなこと書いていいと思います。噓です(半分は本気ですが)。追い追い、そのお悩みについてもちゃんと考えてみますね。
 真剣に検討した結果、お悩みやご質問の傾向はいくつかに分類できることがわかりました。なので、何回かにわけて、お答えできるものには回答していきたいと思います。全員のご質問に個別にお答えできなくて申し訳ないのですが、「似たようなことで悩んでるひとがいるんだな」と感じていただけるはずですので、回答が少しでもご参考になれば幸いです。

 では、行ってみましょう。まずは、【書く際の姿勢編】です。「猫背で」とかではなく、書くときの環境や心持ちについてですな。
 あ、ご質問の文章は、私のほうで要約しちゃってます。すみません。


小説を書くための、集中できる環境づくり(具体的にはデスクのつくりかた)について教えてください。(萌子さん)

 しょっぱなから難問です。これはもう、「ひとそれぞれ」としか言いようがなく、喫茶店をハシゴするかたも、自宅のダイニングテーブルで書くかたも、仕事部屋を自宅とはべつに持ってるかたもいるようです。
 私は、自宅の、仕事部屋にしている一室で書きます。喫茶店や出張先のホテルでやむをえず書くこともありますが、エッセイはまだしも、小説は自宅の仕事机じゃないと集中しきれません(喫茶店でもどこでもいいので、「ここで書くと気分が乗りやすい」と無理やりにでも習慣づけることが大事、ということでしょう)。
 では、仕事部屋及び仕事机はどんな感じかというと、もう、紙やら資料やら文房具やらでごっちゃごちゃです。整理整頓ができんの! ほかの部屋はまだ「人間の住居」っぽさを保ててると思うのですが(まあ、本棚に収まらない本や漫画が床のあちこちに積まれてますが)、仕事部屋だけはダメです。整理整頓してる暇があったら書く、という姿勢なのだとご理解ください。……お察しのとおり、単に、家事のなかで掃除が一番きらいかつ苦手なだけなんですが。でも私の場合、仕事部屋がごちゃーっとしてるほうが落ち着くのも事実。
 きれい好きなかたは、もちろん機能性重視で机まわりを整えたほうがいいと思いますし、こればかりは各人の性に合った場所、環境を見いだしていくほかないです。どんなパソコンやワープロソフトを使うかも、同様です。
「性に合う」とは、「習慣になりやすい」ってことでもあります。まったく体質に合わないし味も好きじゃないのに、コーヒーを毎朝必ず飲むひとはいないですよね。「性に合う」からこそ、つづけられるし、習慣になる。なので、「居心地いいな」とご自身が感じられる環境を追求し、多少気分が乗らない日であっても、その場所で少しでも書いてみるよう心がけていれば、「パブロフの犬」みたいに「ここにいるときは書こうかな」って感じになっていくはずです。
 あと、人間、基本的には集中できないものなんだ、と諦めてください。ちょっと(かなり)部屋が汚くても死に直結はしませんし、空き時間にエンピツで裏紙にちょちょいと思いついたエピソードやセリフを書いたっていいのです。「集中できないのは、これのせいかな」とか、あまり考えすぎず、ご自分にとって心地いいと思える場所、瞬間に、書く! なるべく楽しみながら小説に取り組んでいただければと願っております。


自作のどこが悪いのかわからなくなるときがあり、でも周囲に小説を読んでくれるひとがあまりいなくて、だれにアドバイスをもらえばいいのか悩んでいます。(柚花開さんほか)

 なるほど。しかし、こういうご質問を寄せてくださったかたは同時に、「インパクトが弱い気がする」とか「構成がうまくいっていないみたいだ」とか、ちゃんとご自分の作品についての客観的な分析も書き添えてくださってるんですよ。だから、大丈夫!
 だれしも、「自作のどこが悪いのかわからなくなるとき」はあります。万全にわかってたら、この世から駄作は消えてなくなるはずだ。しかし実際問題、駄作が消えてなくなってないということは……。いてて、いてて。自分の脳天にハンマー振りおろすようなことを言ってしまったぜ。
 ことほどさように、自作をジャッジするのはむずかしいものですし、書いてるときは弱気になるものです。でも、みなさまは悩み迷いながらも、きちんと自作の分析ができているのですから、もっと自信を持ってください。
 自分の書くものに、一番の情熱と労力を傾けられるのは、自分以外にいません。ありったけの情熱と労力を傾けたからこそ、読者にうまく伝わらなかったり、認めてもらえなかったりしたとき、がっかりし、「くそー」と思ってしまうのです。それは当然の心の動きです。あたしもしょっちゅう、「俺の書いたもんのほうがおもしろい気がするんだがな!」と内心でキーキーしています。
 けれどあたりまえですが、創作物はタイムで勝敗がはっきりする競技とはちがうので、感じかたや好みは千差万別。淀川長治先生は、「どんな映画にも必ずいいところがある」とおっしゃったそうですが、本当にそのとおりで、だれが書いた小説にも、必ずいいところがあるのです(悪いところというか、うまくいっていないところも、たぶん必ずあるものだと思うけど、それすらも「瑕」ではなく個性や味わいになるのだと前向きに受け止めていただきたい!←切実)。「俺の書いたもんのほうが」などと思ってしまうのは、やはり単なる嫉妬であるなと反省する日々です。キーキーするぐらいなら、どうしたら読者により伝わるように書けるのか試行錯誤したほうがいいな、と。
 なので、ご自分の作品を客観的にジャッジしつつも、情熱と労力を傾けて書いていってください。読者の胸に届きますようにと、愛をこめて。愛とは、なにかひとつのもの(この場合は自作)への思い入れであると同時に、相互理解への希望を抱くことでもあります。自作に思い入れることと、自分以外のだれかと作品を通して理解しあいたいと願うこととは、両立しますし、どちらも同じぐらい大切です。「客観性」と言うと冷たく聞こえるかもしれませんが、真の客観性とは、他者とより理解しあいたいという愛から生まれるものだと私は思います。

 理解しあうためにも、作品へのアドバイスは必須だ、と思うかたもおられるでしょう。「だれかに読んでもらって、アドバイスをもらったほうがいいのかな」と迷っておられるかたは多いと、みなさまからのご質問を拝読して感じました。
 正直に申しましょう。アドバイスなど無用!
 ……この連載の主旨が根底から崩れることを言ってしまった。しかし、本心です。理由を述べます。
 まず第一に、自分で自分の書いたものをある程度ジャッジできないひとは、小説を書くことにあまり向いていません。
 では、どうしたらジャッジできるようになるのかといえば、これはやはり、小説を読んできた経験によって培われる、と言えると思います(例外的に、小説を読んでこなかったけど書けるし、自作をちゃんとジャッジできる、という天才肌のひともいると思いますが、私はそういうひとにお目にかかったことありません)。
「この小説、好きだなあ」「これが小説ってもんなのか、すごいなあ」と思えるような「理想像」と、読書を通して出会っているからこそ、「自分の書いたものには、なにがたりないのか」「どうしたら、斬新だったりおもしろかったりする小説を、自分なりに工夫して書けるのか」を、判断し実践していくことができるのです。
 あせることはないので、「好きだな」「楽しいな」と感じる小説を、思うぞんぶん味わってください(小説にかぎらず、創作物全般で、ご自分の性に合うものでいいのです)。ときに、「どうして私はこれが好きなんだろう」「この小説の楽しさは、どこから醸しだされているものなんだろう」と、分析してみることも大切です。「分析」といっても、むずかしくとらえる必要はありません。「考えてみる」「言語化してみる」というぐらいの意味です。
 創作物を味わい、考える、ということを繰り返していると、だんだんご自分の好きなものや書きたいもの、自作に欠けていることなどが見えてくると思います。
 そうだ、もし創作物好きの友だちや同僚や家族がいたら、味わった作品についての感想や考えたことをおしゃべりしたり、相手のおすすめ作品を教えてもらって、それを読んでみたりするのもいいですね。だれかに話すことで、思考が新たな段階に突入することがありますし、自分以外のひとが創作物についてどう感じ、考えているのかもわかって、楽しいし参考になるからです。おすすめしてもらうことで、自分のアンテナには引っかかっていなかった傑作と出会えたりもしますしね。
 ただし、自作については、友だちや同僚や家族などからの感想は求めないほうがいいです。親しさゆえに酷評されて喧嘩になったり、気づかわれて本音を言ってもらえなかったりと、あんまりいいことないからです。
 私は身近なひとに感想を求めたことはないです。友だちのほうから、ごくたまに、「あれ読んだけど、よかったよ」と言ってきてくれることがあり、そういうときはむっちゃうれしくて、天にものぼる気持ちです。まあ、おおかたの場合、友だちからの感想はなにもないわけだが、「まずい出来だったんだな」ではなく、「本が出たことに気づいてないんだな」と解釈しています。ポジティブシンキング!

 アドバイス無用と考える理由の第二は、的確なアドバイスができるひとは、そうそういないからです。
 うぐぐ、また自分の首を絞めるようなことを言ってしまった。だからこの連載も、どうか話半分でお読みいただければと……。ほんとすみません。
 ものすごい読書量があっても、批評眼が優れているかどうかは、またべつの問題です。なおかつ、実作に活きるような批評ができるかどうかとなると……。そういうひとを探して、自作を読んでもらうのが、どれほどむずかしいことかおわかりいただけるでしょう。
 たとえプロの小説家であっても、書いているときは一人です。編集さんが手取り足取りアドバイスしてくれるなんてことはありません。すべてを自分でジャッジしつつ、黙々と書くしかないのです。
 書きあがったら、もちろん編集さんや校閲さんが読んで、「ここはちょっとわかりにくいのでは?」とか「ここの時系列が変では?」とか、アドバイスや指摘をくださることもあります。しかし、すべての編集さんが的確なアドバイスをくれるとはかぎらないんですよ、これが! なかには原稿読むのが苦手な編集さんもいて、アドバイスや指摘が一個もないこともあるのです!
 じゃあなんで編集者をやってるんだ、と思うかもしれませんが、そういう編集さんは、たとえば帯の売り文句や装幀の方向性を考えるのがうまかったりと、原稿を読むのとはまたべつの適性が備わっておられるのです。小説に対する好みや評価軸が多様であるように、編集者としての適性にも、いろいろなものがあるってことですね。
 だから、原稿が書きあがってからもやはり、(アドバイスや指摘があってもなくても)自分でジャッジすることが肝心になってきます。もちろん、素直に、虚心坦懐に、最初の読者である編集さんのご意見や感想に耳を傾け、指摘を活かしたほうがいいかどうかを落ち着いて検討します。
 これがデビューまえとなると、編集さんも校閲さんもいないわけですから、的確なアドバイスをくれる読み手とめぐりあうのは、ますます困難を極めるでしょう。また、もし幸運にもめぐりあえたとしても、結局のところ、作品にとって最善の道を判断するのは自分です。

 最近では、インターネット上で作品を発表し、感想をもらったり、批評しあったりできる、と聞きます。基本的にはよきことだなと思うのですが、あまり振りまわされすぎないほうがいい気もします。つらつら説明してきましたとおり、作品のためになるような的確な批評ができるひとはそうはいませんし、「書くときは一人。作品への評価を受け止め、咀嚼し、次にどう活かすか(あるいは無視して我が道を行くか)を判断するのは自分」という覚悟と姿勢をもって取り組まなければ、いたずらに惑ったり迷ったりするだけに終わってしまうと思うからです。
 また、読者からの反応(感想や批評)ほしさに、小説を粗製濫造してしまうおそれも出てきます。無尽蔵に湧きでる情熱はありません。恋と同じく、いつかは目減りし、鎮火に向かっていくものなのです。そういう貴重な情熱を、デビューまえから無駄づかいするのはよくありません。「この作品を書きたい」と本心から思っていないときに、読者からの反応がほしいという理由で無理やり書いていては、いつか疲れてしまいます。
「読者に伝わるように」と先述したことと矛盾するようですが、はっきり言って私は、書いてるときは、「だれがどんなふうに読んでくれるかな」なんて考えません。書きあがって本が出ると、気になってご感想を検索しちゃいますが。
 作品のことだけを考え、ベストになるようジャッジしつつ書く。それがすなわち、「読者に伝わるように書く」ことだと思うのです。「読者にうけるかな~、反応もらえるかな~」なんてことに気を取られて書くのは、邪念以外のなにものでもない! あと、読者の読みを、作者の意図どおりに操りたいという願望の発露とも言え、貴様、読者と小説を舐めちゃあかん! と思います。
 そうそう、私はご感想を(主に発売直後に)ネット検索する派ですが、これも実は、あまりおすすめしません。酷評を目にして、ものすごく衝撃を受けてしまうかたもおられるからです。あたしはわりとマゾっ気あるのか、「ほうほう、ひどい言われようだなあ」ぐらいで済むし、なかには「本当にそのとおりだな。次からは気をつけます」と襟を正さねばならないご意見もあるので、いまのところ検索するようにしています。でも、たとえボンクラな(と思えるような)感想であっても、どうしても気にしてしまって滅入る、というかたは、精神衛生上、感想を見るのはやめたほうがいいでしょう。
 自分の小説をよりよくできるのは、究極的には自分だけ。それを忘れず、自信と責任、自作への客観性と情熱を持って書いてください。


小説を書くのに人生経験は必要だと思いますか? (たぬきちさん)

 おい、みんなたち! どうしてむずかしい質問ばっかしてくるんだ! おいらの手には余るよ!
 いや、冗談です。おいらの手に余るのは本当だが、むずかしいけれど非常に重要なご質問です。たぬきちさんは、ご自身の思いや、なぜ人生経験が必要か否かで悩んでいるのかについても、丁寧に書き添えてくださいました。ありがとうございます。

 基本的には、小説を書くうえで人生経験はさほど重要ではないと考えます。だってさあ、「人殺しの小説を書くためには、ひとを殺した経験がなければならぬ」って理屈は、どう考えてもおかしいだろ。殺人を犯したことがなくても、人殺しの小説は書けます。なぜなら我々には、想像力が備わっているから!
 では、想像力の源泉とはなんなのかと考えてみると、他者への思いやり(共感力)と、なりきり力と、知識だと私は思います。そして、それらを統御し蓄積するための言語能力です。
 私たちは、実際に会ったことのないひとや架空の人物にも思いを馳せたり、思い入れたりすることができます。「いま、目のまえにいる友だちはどんな気持ちなのだろう」と慮ったり、「もし私があのひとだったら、さぞかし楽しい毎日を送れるんだろうなあ」と憧れの人物に自分を仮託してうっとりしたりもします。書物や映画などから、過去の悲惨な出来事や現在の問題点などを知り、「ひどいことがあるものだ」と義憤にかられたり、「自分だったらどうするだろう」と考えたりすることもあります。

 一人の人間が実際に経験できる事柄は、どうしても限られてきますが、想像力によって、「自分」という壁を超え、時間や空間をも超えて、だれかの思いに寄り添ったり、だれかの人生を追体験したような気持ちになったり、だれかの経験について知ったりすることができるのです。そして、想像力を構成する大きな要素は、言語です。言葉がなければ繊細な感情は生まれず、つまりは自分のことも自分以外のだれかのことも繊細に感受できないし、この世界のどこかで起きている事柄についても、正確に伝わってこないし伝えられないと思います。
 想像力とか感受性って、もっと感覚的なものというか、感性に属するものなんじゃないの? と思うかたもおられるかもしれませんが、私は言語こそが重要なのではないかと考えています。言葉を獲得することによって、深く考えることが可能になり、思考によって感情は育ち、周囲のひととかかわった体験や書物などから得た知識によって味わった感情を、自分のなかで言語化してじっくり考える。この繰り返しによって、想像力や感受性は鍛えられていくものなのではないでしょうか。
 そんなこんなで、「実際に経験したか否かは、小説を書くにあたって、さして重要ではない。なぜなら想像力があるから」と考える次第ですが、見逃してはならないのは、「想像力を構成する大きな要素である『言語』を獲得するには、時間がかかるし経験が必要である」という点です。
 外国語を習得するためには、多大な努力と時間と実践を要しますよね?(私は外国語を習得できたためしがないので、それこそ「想像」でものを言ってますが) たとえ母国語であっても、実は同じことです。赤ちゃんがぺらぺらしゃべるようになるまでには、ひとによってまちまちでしょうけれど、三年ぐらいはかかるんじゃないでしょうか。ましてや、筋道を立てて思考したり、他者の感情に思いを馳せたりできるだけの言語能力を有するまでとなったら、相当の時間がかかるはずです。「あちゃー。相手の気持ちを慮れず、トンチンカンなこと言っちゃったなあ……」といった、失敗や試行錯誤の経験を積み重ねて、言語能力、ひいては想像力を、一生をかけて磨いていくものなのだと思います。

 スポーツ、音楽、数学、将棋や囲碁の世界などでは、幼少のころから才能を発揮するひとがいます。身体性や鍛錬(反復練習)、言語とは異なる論理性が深くかかわってくるジャンルだからなのではないかと推測します。
 しかし、「十代前半とかで後世に残る小説を書いた」というひと、聞いたことないですよね? たぶんいないんだと思います。短歌や詩の世界では十代のうちからきらめく傑作を書くかたがいらっしゃいますが、短い文字数であること(世界を切り取る感性)、韻律(リズムや音楽性)が重要な構成要素だということと関係があるのかなと思います。
 小説(特に長編)は、相当の文字数を費やさなきゃなりませんよね。小説を感性/感覚で書くものだと思っているかたがおられますが、私はちがうのではないかと考えます。言語のみで表現するものなのですから、当然ながら、言語的な論理性に基づいて作りあげるものなのです。「このモヤモヤした気持ちを言語に落としこみ、最善のタイミングで、効果的に表現するためには」といったように、すべて言語で考え、言語で実践しなければならない。そのため、十代とかだとちょっと荷が重いのだと思います。前述したとおり、言語を獲得し、言語によって思考と感情を深め、想像力を鍛えあげるには、ある程度の時間と経験が必要だからです。
 そういうわけで、「小説を書くのに、実人生で豊富な経験は必要ないが、小説を書くために必要な言語(想像力)は、時間を費やし経験を重ねて獲得していくほかない」と考える次第であります。
 たぬきちさんは、「自作の登場人物の感情表現が子どもっぽいのではないか」とお悩みのようですが、子どもっぽい大人なんてわんさかいますよ! それでも気になるようだったら、想像力の出番です。周囲のお友だちなどをさりげなく観察しつつ、「大人とは……」とよく考えて、渾身でなりきって書くといいのではないでしょうか。自分以外のだれかになれる、というのも、想像力があるゆえの楽しさ、小説を書くときの楽しさですものね。

 は~、長くなってしまった。次回は、【文章について】と【書き進めるためには】について、お返事しつつ考えてみたいと思います。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。最新刊は「ののはな通信」(KADOKAWA)、「愛なき世界」(中央公論新社)。

短編小説新人賞 応募

関連サイト

e!集英社
コバルト編集部ブログ
ウルンジャー書店
マーガレットブックストア
ダッシュエックス文庫
ファッション通販サイト FLAG SHOP(フラッグショップ)