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小説を書くためのプチアドバイス by三浦しをん

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第20回 「小説を書くためのココが知りたい!」質問へお返事 【文章をめぐるお悩み編】【書き進めるための秘訣編】

 前回にひきつづき、今回もみなさまからお寄せいただいたお悩みやご質問にお答えしていきたいと思います。連日の暑さで脳がとろけそうですが、ここはビシッと冷房をかけ、万全の状態で臨みます。
 はい、まんまとエアコンのリモコンが作動しません。どうやら電池切れのもよう。ちょっと電池を探してきます。
 ……電池の買い置きがなかったので、近所のスーパーに行ってきました。往復十分たらずの道のりなのですが、取り組み後のおすもうさんなみに汗が噴出しています。この原稿は、おすもうさんとちがって腕っ節弱いくせに全身汗みずくの生き物が書いてると思ってください。「げげっ」て感じがするでしょうけれど、シャワーを浴びる時間すら惜しんでパソコンに向かう真剣さを汲んでいただきたい(単に面倒くさがりなだけ)。
 ビシッ。無事にエアコンを稼働させることもできましたし、もう大丈夫です。それでは行ってみましょう。

 まずは、【文章について】。あ、前回同様、お寄せいただいたご質問は、私のほうで勝手に要約してしまっています。すみません。


個性のある文章を確立するには、どうすればいいのでしょうか。はじめはだれかの真似でもいいのでしょうか。(雀さんほか)

「どうしても既存の小説家の文章に似てしまっている気がする」など、「自分らしい文章が書けていないのでは」とお悩みのかたが複数名いらっしゃいました。
 これに対する私の考えは明確です。似ていたって、真似だって、いいのです。いや、だれかの文章を丸ごとパクっちゃだめですよ? そうではなく、「書いてるうちに、なんか文体が似てるような気がしてきたなあ」「この文体、小説家の○○さんの真似っぽいんじゃないか?」と思っても、べつに気にすることはないという意味です。
 理由を述べます。「似てるかも」という自己診断は、ほぼ百パーセント勘違いだからです。
 もちろん、読んできた書物の文章から、リズム感や言いまわしなどの影響を受ける、ということはありえます。好きなひとや憧れのひとの影響を受け、気づかぬうちにファッションや仕草が似てきてしまったかも、というのと同じです。長年連れ添った夫婦が、醸しだす雰囲気のみならず顔つきまで似てきた、みたいなこともありますよね。
 でも、じゃあそのカップルや夫婦が同一人物になったのかというと、あたりまえですがそんなことは起こりようがありません。いくら影響を受けようが、二人はまったく別個の人間です。
「どんなに愛していても、相手と同一の人間にはなれない」というのは自明のことなのに、文章(文体)についてだけ、「似てるかも」「真似かも」と心配するのは、取り越し苦労というものです。べつべつの人間が、べつべつの思考、感情、身に宿したリズム感と語彙、経験と想像力などなどから書いた文章なのですから、それはほかのだれともちがう、そのひとだけが生みだせる文章(文体)にちゃんとなっています。なんも気にせんでよろしい。

 私は夏目漱石の小説が好きですが、念のため想像してみました。漱石に、「先生の小説が好きなあまり、なんか文体が似てきちゃった気がするんですけど……」と、自分の原稿を見せるところを。漱石、「ふんっ、どこが吾輩の文体に似てるというのですか」って、鼻で嗤ってました(猫は「吾輩」と言うけど、漱石は「吾輩」とは言わない気がしますが)。ひぃーっ、残念! 似てなかったか! うん、うすうす知ってた。
「好きだから」「読んでるから」というだけで文体が似るほど単純な仕組みなら、苦労はない。同時に、こんなに大勢小説家が存在するはずもない。書けば自然と、それぞれの文体や持ち味が醸しだされるものだから、小説(ひいては創作物全般)ってのは楽しいし、多様になるのです。
 好きな小説から影響を受けるのは当然で、影響を受けて「真似っこになっちゃったかな」と思っても、あなたの脳が生みだしたものなのだから、それはあなただけの文章になってます。自信を持ってください。

 でも、「真似かも」って気にしちゃう気持ちもわからなくはないです。なぜなら小説は、言語だけで表現するものだから。
 言語は、あなたや私が生みだしたわけではないですよね。つまり、「オリジナル」ではなく、すでにあるものを使って表現しているということになる。それで不安になるのだと思います。
 たとえば「漫画を描く」という行為は、より身体性が直に画面に出ます。それぞれの漫画家さんの筋力とか目のよさとかが、各人固有の「線」になって表れる。ほんの一コマ、いや、人物の体の一部を見ただけでも、「あ、これは○○さんの漫画だな」ってわかることはしばしばありますものね(ありますよね? 私が漫画オタクだからってだけじゃないですよね?)。
 とはいえ、「このひとは○○先生の漫画が大好きで、影響を受けたんだろうな」と推測されることはあるし、コマ割りなどの漫画文法から完全に解き放たれたら、それはもはや漫画ではなくなってしまう。漫画も、すべてがまったくの「オリジナル」ってわけではないのです。あらゆる創作物は、先人たちが築きあげてきたもののうえに成り立っているためです。
 しかしまあ、漫画に比べたら小説は、文章の「個性」がパッと見えにくいのは事実です。既存の言語を使っているうえに、たとえ手書きで原稿を書いたとしても、本になるときは活字に変換されるので、「このひとが書いたものです」という明確な目印がない(=個々人の身体性を感じにくい)ですからね。私も、「べつのペンネームで小説書いたら、たぶん同一人物だとはバレないだろうな」って自信があります。自信持っていいポイントなのかわからんけど。没個性。
 見かたを変えれば、個性なんてその程度のものだ、とも言えます。そう考えると、なんだか気が楽になりますし、その程度の個性だとしても、それでも脳を振り絞って書くのです。そうすれば自ずと、あなただけが書ける文章、文体になっちゃうものですから、気を揉まなくて大丈夫です。


思いどおりの文章が書けません。描写したいことがあっても、それをうまく言葉に表すことができないのです。(二戸雪さん)

 小田和正の名曲の革新性は、「言葉にできない気持ちを、あえて歌詞にしてメロディーに載せるのが『歌』ってもんだろ」という既成概念を覆し、「言葉にできない」とズバンと歌っちゃったところです。手抜き……ではないのは、『言葉にできない』をお聞きになったことがあるかたは、みなさんおわかりでしょう。
『言葉にできない』は、サビの部分はハミング(?)と「言葉にできない」のみで成り立ってますが、そこに至るまででちゃんと、「なぜ言葉にできないのか」を説明(描写)しています。
 そういうことです。
 小田和正氏を見習って、言葉少なにズバンとまとめてみましたが、「『そういうこと』ってどういうことじゃい」と思われたかもしれませんね。
 ここにも、『言葉にできない』から学ぶべきポイントがあります。『言葉にできない』が名曲たりえているのは、「サビに至るまででちゃんと説明している」ためだけでなく、もうひとつ理由があると思われます。それは、小田氏の美声と美メロで「言葉にできない」と切々と歌いあげられるから、「そりゃもう言葉にできる人類なんていなくて当然だよ! だけどわかる……! 気持ちがむっちゃ伝わってくる……!」と感じることができるのだ、ということです。
 翻って、文章のみでしか表現できない我々は、「言葉にできない」「そういうことです」で済ませちゃあかんのです。伝わらないからです。
 しかし、「美声と美メロを持ちあわせぬばかりに……!」と絶望することはありません。前述のとおり、小田氏は我々に対してちゃんと回答を提示してくださっています。「言葉にできないことがあっても、それがなぜなのかを丁寧に描いていく」です。核心部分の描写はむずかしくても、その周辺や、そこに至るまでの行動や心情や風景などの描写を重ねることによって、受け手(読者)は、「ああ、こういうときって、気持ちが言葉にならないよな」と想像したり感じ取ったりしてくれるのです。

 では、描写力をどうやって身につければいいかというと、以前にもちょっと申しましたとおり、「文章のデッサン力を磨く」のが手っ取り早いのではと思います。ふだんの生活で感じたこと、目や耳にした出来事や風景などを、脳内で即座に文章にする訓練をしてください。「……」と、ゴルゴ13の形態模写(?)をしとる場合じゃありません。頭のなかですべて言語化する瞬発力を養いましょう。
 スポーツ選手が走りこみやスクワットをするように、画家がデッサンをするように、小説を書くひとも当然ながら、日々、「脳内で文章にする」という基礎トレーニングを習慣づけなければ、ものにはならんのです。
 慣れれば、特に意識せずとも脳内でいつも言語化している状態になるのではと思いますが(それゆえ、非常に脳が疲れるので、適度に休息を取らねばならないのもスポーツ選手と同じです)、心がけても心がけても、思いどおりに脳内で文章にならない、というひともいるかもしれません。
 その場合は、語彙を増やしましょう。「そんなことかいっ」と思われるかもしれませんが、身につけた単語数が多いほうが、表現の自由度が上がります。もちろん、文法力もあったほうがいいです。これらを培うためには、やっぱり読書をしたり、ひとと話したりするのが一番だと思います。「このひと(あるいは「この本」)はなにを言わんとしているのか」とちゃんと考え(脳内での言語化)、わからない言葉があったら辞書で調べ、というのを繰り返しているうちに、語彙と文法力がアップするし、自分の思いを言葉にできるようになるはずです。

 あとは……、国語の文章問題を解いてみるってのも、案外有効なんじゃないかと思わなくもないです。というのも、「国語の文章問題が大の苦手だった」「著しく読解力に欠けていた」って小説家に、私はあまり会ったことないんですよ。もちろん苦手だったひともいるとは思いますが、だいたいのひとは、「ほかの教科は赤点でも、国語だけは鼻くそほじりながら解いても満点に近かった」って感じ。鼻くそ派の割合が、ほかの職業よりは高いのではないかと推測されます。
「国語の試験なんざ、テクニックでなんとでもなるもんで、本当の意味での『読解』でも『文章を味わうこと』でもない!」と言うかたもいらっしゃると思うのですが、肝心なのは、まさにそのテクニックの部分、「出題者の意図を読解する」という部分です。つまり、「俺は正解はこうじゃないかと思うけど、選択肢のなかにないってことは、貴様の考えはこれだってことだろ」と、文章や自分自身について「分析」し、相手の心を「読む」。
 現実の人間関係の場合、相手の表情や声音とか、これまでのつきあいから導きだされる経験則など、さまざまな情報を総合して判断しなきゃなりませんが、国語の文章問題の場合、すべて言語のみに基づいて検討・思考すればいいので、基礎的なトレーニングになるんじゃないかなという気がするのです。
 べつに受験するわけじゃないし、小説家になるための資格試験なんてものもないので、気楽にかまえてください。読書でもおしゃべりでも文章問題でもなんでもいいから、ご自身が楽しく取り組める方法を探し、まずは「脳内での文章化(=デッサン力)」が身につくよう、少しずつ心がけてみるのが大切です。


どうすれば文章に緩急がつくのでしょうか。(八十八さん)
文章がビジネス文書みたいになってしまいます……。(ひげねこさん)

 といったお声もありました。

 前者については、「個性のある文章」と「思いどおりの文章になりません」への回答の合わせ技になるので、ご参照ください。
「文章に緩急がない」って感じているのは八十八さんだけかもしれず、もし本当に緩急がないのだとしても、それが八十八さんから生みだされる唯一無二の文体なのですから、思いきって緩急のなさを極めてみるのもオツなものかもしれんよ、ってことです。また、「悪い意味で、まじで緩急がない」のだとしたら、それは「なにかを自由に表現できるほどには、まだ文章を駆使できていない」ということなので、語彙と文法力とデッサン力を増強してみてはいかがでしょうか。
 身体を持つ人間が書くものなので、文章もほんと慣れというか、トレーニング(思考と実践の繰り返し)がわりと効くんですよ。トレーニングすれば、(文章の)筋力と柔軟性がアップしていくので、そのうちリズム感も出てくるのではないかと思います。

 後者についても同様で、「思いどおりの文章になりません」をご参照ください。
 しかしですね、「ビジネス文書みたいな小説」って、それけっこうすごいことですよ! どんななんだ、むしろ読んでみたいよ! 書こうと思ってもなかなか書けるものじゃない気がするので、ご自身の持ち味を美点ととらえて、「ビジネス文書みたいな文章」を活かせる題材や設定を探るなど、発想を転換してみるのもいいかもしれません。「小説とは、こうであらねばならぬ」って思いこみすぎないでくださいね。

 さて、次は【書き進めるためには】について考えてみたいと思います。


小説を百枚も書けるようになるのか、不安です。(渚さん)
小説を完結させるコツはありますか? 書いていて自分の文章に絶望してしまったり、「なんて支離滅裂なんだ……」と筆が止まってしまうことがしばしばです。(みづきさん)

 同様のお悩みは複数寄せられていて、「ほかのどんなご質問よりも悲壮感にあふれている……」という傾向がうかがえました。たぶん、完結までの遠き道のりにめまいがしたり、道半ばで倒れ伏したりしているのでしょう。気をしっかり持つんだー! まずは水飲んで一息つけー!
 百枚だって千枚だって書けるようになりますし、ちゃんと完結させられるようにもなります。なんにも心配しなくて大丈夫!
 私も小説を書きはじめたころは、「五百枚とかって、みんなどうやって書いてるんだろう。私にはとても無理だ……」と遠い目になってましたが、いまや「書いても書いても終わらんやんけ! 私、尿切れ悪くなってないか!?」という状態です。長けりゃいいってもんじゃないので、そのときの自分の力と、作品の内容に見合った枚数を、コツコツと書いて完成まで漕ぎつけるよう努める。結局はこれが早道です。

 小説を書く行為は、長距離走にたとえられることがしばしばあります。私は運動全般をしないので、当然、長距離を走ったことなどないのですが、たしかに似ていそうだなと思います。特に長編の場合、持久力、粘り強さ(少しずつでも書きつづけること)が、非常に大事になってくるからです。
 さきほど、描写力を身につけるためには、「文章のデッサン力を磨くこと(ふだんから脳内で文章化に努めること)」が有効だと申しました。とにかく、あらゆるもの(風景や感情など)をなるべく言語化することに慣れる。これは瞬発力系の訓練です。
 しかし、脳内で言語化することと、実際に小説の文章を書くこととでは、またちょっと趣が異なります。画家の場合もたぶん、デッサン力をつけるためにクロッキー帳に描いて練習するのと、いざキャンバスに本番の作品を描いていくのとでは、かかる時間も神経の払いかたもちがうのではないでしょうか。「これじゃなーい!」って、絵の具で塗りつぶして描き直したりと、試行錯誤するはずです。
 小説も同じで、基本のデッサン力は絶対に必要ですが、実際に書くとなったら、今度は持久力が要求されます。
「文章のデッサン力」という瞬発力が養われていれば、「こんな感じの文章を書きたいんだけどな」というイメージや、もしかしたら具体的な一文自体が脳内に浮かぶと思います。それをパソコン上(あるいは原稿用紙)にコツコツと出力しながら、より研磨していくのです。
 このとき、目のまえの一文が本当に最適の表現になっているか、ということのみならず、心の視野をなるべく広く保って、前段までとの整合性や、全体の構成や、登場人物それぞれの心情などにも、気を配る必要が生じます。行きつ戻りつし、推敲し、粘り強く考えながら、数百枚を書くのですから、時間がかかって当然です。気持ちや筆が乗っているときはいいですが、詰まってしまったら、「なにを書きたかったんだか……ぜつぼう……」って、そりゃなりますよね。
 もう、めげずに、亀のごとき歩みでもいいから、完成を目指して少しずつ進むほかありません。
 ここで朗報なんですけど、以前に長距離選手のかたに取材したところ、瞬発力系の筋肉よりは、持久力系の筋肉のほうが、後天的な努力が実を結びやすいそうです。100メートル走とかは、選手の持って生まれた筋肉の質がものを言う部分が大きいけれど、マラソンとかは、最初はド素人であっても、練習すればそれなりにタイムを縮めることができるらしい(むろん、オリンピック出場レベルになるには、努力だけでなく資質も大きく影響してくるでしょうけれど)。
 なるほど、年を取っても、運動音痴でも、100メートル走をするひとよりはジョギングするひとのほうが多いのは、努力の成果が実感できて楽しいし、自分のペースで取り組めるからなのかもしれないな、と思いました。私はジョギングするなど絶対にごめんなので、あくまでも推測ですが。
 これは、文章における瞬発力と持久力についても言えると思います。もちろん文章の瞬発力も、自分に合ったトレーニング法で取り組めば、鍛えることはできます。でも、いきなり語彙が倍増、とはいかないですよね。すでに相当数の語彙を身につけて大人になってるのですから、「のびしろ」が少ない。よって、トレーニングして「文章の瞬発力」を養っても、目を見張るほどの成果、とはなりにくいかもしれません(それでも絶対にトレーニングしたほうがいい、と思いますが)。
 しかし、「コツコツ書く」という「文章の持久力」は、慣れが非常にものを言いますし、一作を完成させるごとに距離(枚数)をのばしていくこともできます。たぶん、「考えること」「工夫すること」は、書くという経験を重ねれば重ねるほど深まり、バリエーションを思いつくこともできるようになるからです。身につけられる語彙などには限界があっても、「じゃあ、それをどう活かすか考えること」には、ほぼ無限の可能性があるのです。
 とはいえ、身についた語彙のなかからどの言葉を選ぶか、どんなふうに組みあわせて文章の独自性やリズムを生みだしていくかには、各人の感覚や思考回路などの「持ち味」も大きくかかわってきます。これに関しては、トレーニングで性格や価値観をがらりと変えるなんてことはほとんど不可能ですし、無理してそんなことをする必要はないとも思います。多少不格好だったりいびつだったりしても、「そのひと特有の持ち味」って、小説にとってとても大切なものだからです。

 持久力を養成する際に肝心なのは、「闇雲に書いちゃいかん」ってことです。どういうコースなのか知らないまま、42.195キロを走るマラソン選手がいるでしょうか。おらん。皇居の周囲が何キロあるのか知らないまま、ぶっ倒れるまでひたすら何十周も走るジョガーがいるでしょうか。おらん。
 そんなことをしても無駄に疲れるだけですし、うっかりすると筋肉断裂や死の危険性すらあります。コースや距離を事前にちゃんと把握し、ペース配分したり適宜給水したりしなければ、長距離を走りきることなどできません。
 小説を書いていて行き詰まったり、ゴールを見失って道半ばで倒れ伏したりする原因の大半は、事前の「構想不足」と「構成の練りあげ不足」ではないでしょうか。コースを把握せず見切り発車したため、ペース配分や給水に失敗して行き倒れるのです。
 ここで言う「構想」とは、「登場人物や舞台の設定。どういう雰囲気の作品にしたいか」といったことだと思ってください。「構成」は、「どのエピソードをどのあたりに持ってきて、どういうストーリー展開(起承転結)にしたいか」です。
 構想優先なのか構成優先なのかは、ひとによっても、作品によってもちがいます。まあ大半のひとは、構想したのち、具体的な構成に取りかかるのではないかと思いますが、構成とほぼ同時並行で、登場人物や舞台が思い浮かんでいく、というケースもあるので、ほんとにまちまちです。
 また、構想のなかでも、まず思い浮かぶのが人物像なのか舞台なのか雰囲気なのかなど、これまたケース・バイ・ケースでしょう。
 長い枚数を書き慣れていないうちは、構想も構成もじっくり考え、それなりに練ってから書きはじめるのが安心です。あせりは禁物。行き当たりばったりは、行き倒れを引き起こします。

 構想や構成を事前に練りすぎると、登場人物も展開もがっちがちに凝り固まって、書き割りのまえで演技する操り人形みたいになってしまうのではないか、という疑問もおありでしょう。たしかに、そういう危険性があることは否定しません。
 でも、道半ばで行き倒れてるひとは、倒れた拍子に書き割りも巻きこんで破壊してますし、操り人形の糸もとっくに切れちゃって、「死……!?」ってなってる状態です。「登場人物が自然と動きだし、自由にストーリーが展開するのが理想」なんて言ってる場合ではない、危機的状況に瀕しているのです。「きれいごとはいいから、コースの地図と水持ってきてやってくれー!」ってなもんです。
 まずは「完成に漕ぎつけること(=持久力系の鍛錬)」を目標に、構想と構成を練りましょう。
「登場人物が自然と動きだす」「自由にストーリーが展開する」などの言説は、噓というか言葉の綾です。心霊現象じゃないんだから、登場人物を動かしているのも、ストーリーを展開させているのも、あなたの脳です。脳、すなわち、あなたの体であり心です。あなたの感情であり思考です。
 必死こいて小説を書いていると、アドレナリンが出て脳が一瞬トリップ状態になるのか、なんだか自分の意思と関係なく、登場人物が動いたりストーリーが展開したりしてるように感じられることがあります。しかし、それは錯覚です。その瞬間も、己れの脳が考え、感じながら、やっぱり必死こいて書いているにすぎないのです。
 ただ、一瞬トリップ状態になるぐらい、のめりこんで書くには、少々コツがあると思います。いわゆる「筆が乗っている」状態に自分を持っていく、です。行き詰まって、一文ごとにうんうんうなりながら書いていたら、なかなかアドレナリンが出るまでには至りません。
「あと二キロさきに給水ポイントがある」とわかっていれば、踏ん張りが利きます。「ここからは上り坂がつづく」とわかっていれば、息切れせぬよう慎重に行こう、とペース配分できます。マラソンのコースを事前に把握しておけば、円滑かつ安全に、走ることに集中できるのです。
 それと同様に、筆を乗らせるために、構想と構成を練ることはむしろ有効だと思うのです。

 次回は、じゃあどうやって構想や構成を練ればいいのか、ご質問にお答えしつつ、もうちょっと具体的に考えてみたいなと思っています。

三浦しをん(みうらしをん)

東京都出身。2000年に「格闘する者に◯」でデビュー。2006年「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞受賞。2012年「舟を編む」で本屋大賞を受賞。近著に「ののはな通信」(KADOKAWA)、「愛なき世界」(中央公論新社)、「のっけから失礼します」(集英社)。

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