瀬川貴次の万物ぶらぶら(仮),segawa takatsuga no bambutsu burabura illustration星野和夏子

其の六:くるくる廻る

何を言っているか、理解してもらえないかもしれないが、回転は恍惚である。小学生低学年ぐらいだったか、ひとりで留守番をしていたときだった。親からは「ちゃんと勉強してなさい」と言われていたのだが、ひとりきりで殊勝に勉強するはずもなく。かといって、「テレビを観てはいけません」だったので、堂々とテレビ鑑賞に浸る勇気もなく。ならば、どうしていたのかというと、ひとりでくるくる廻っていた。両手を広げて、六畳間の真ん中でくるくる廻るだけで、もう気分は最高。電飾キラキラのメリーゴーランドに乗ったも同然だった。目が廻り、疲れて畳に倒れ伏しても、「も、もう一回」と、再び起きあがって飽かず廻り続けていたため、留守番の不安感にさいなまれることも少なかった。そんな話を友人にしたらば、「なんて寂しい子なのー!」と哀れまれてしまったが、それはきみ、あの恍惚を知らないからだってばよ。父の肘掛けイスが背もたれも大きく、なかなか立派で、それにすわって、くるくる廻るのも大好きだった。ちょっと気持ちがふさいだ夜などは、こっそりとそのイスに腰掛け、くるくる廻っていたものである。さすがに大人になると、そこまで回転にこだわらなくなった。ただ、思いも寄らぬタイミングで誘惑は訪れる。あれは健康診断を受けに行ったときのことだ。運悪く、ひどく無愛想な検査技師に当たってしまった。検査着に着替えたわたしは、レントゲン室にひとりで放置され、病院によくあるスツールにぽつんとすわっていたわけだが、(このスツール……、廻れるな)ふと、そう思ってしまった。これから臨む検診への不安、無愛想な検査技師への不満などが、そのような思考へとわたしをいざなったに違いない。誰も見ていないのだからいいだろうと、スツールにすわった状態で少々回転させてもらった。微弱ながらもヒャッハーな感覚を味わえ、満足していたところへ検査技師が戻ってきた。先ほどとは打って変わって、なぜか妙に愛想がいい。笑顔だ。そのときになってやっと気づいたのだが、わたしが放置されていた部屋には、隣に面した壁に窓がついており、隣室から患者の様子をうかがえる造りになっていた。どうやら、回転しているところを彼に見られていたらしい。だが、気にしない。中東のとある宗派では、回転することで自らが天と地を結ぶ一本の軸となり、世界との、ひいては神との合一を体感するのだという。あと、科学的な根拠はまったくないが、三半規管が鍛えられた気がする。わたしが最近、ふらつくようになったのは、回転からとんと遠ざかっているせいに違いない。遊園地によくある遊具のティーカップでも、同種の恍惚感を味わうことができる。カップの中央に備えつけられたリング状の握りは、単なる手すりではない。御存じだろうか。あれを力の限りに廻すことにより、ティーカップ単体の回転を加速させられるのを。そうやってティーカップを充分に加速させたところで、頭を後方へのけぞらせてみてほしい。遠心力でもって脳が頭蓋骨の内側に押しつけられる感覚が、こりゃまた、たまらないのだから。もちろん、首などに持病のあるかたは無理をしないでいただきたいと言い添えておこう。もう少し穏やかなものだと、胃がん検診でも似て非なる体験ができる。検診車の狭い車中にて、大きな板状の撮影台に張りつくよう指示されたのち、台が動くわけだが。さまざまな角度から胃のレントゲン撮影をする必要があるため、上げられ、下げられ、傾けられる。回転までは行かないものの、そこそこ弄ばれるのだ。気をつけていないと、台から滑り落ちて大変なことになったケースもあるそうだから侮れない。実際に撮影台に乗せられ、わたしが思ったのは、「これはまさに、『四谷怪談』の〈戸板返し〉ではないか!」だった。〈戸板返し〉とは、歌舞伎の演出のひとつ。夫・伊右衛門に裏切られ、毒を盛られたお岩は、ふた目と見られない顔になった挙げ句に絶命する。お岩の死体は、別件で殺された小平の死体と、戸板の表裏にくくりつけられて川に捨てられる。戸板は岸に流れつき、くるりくるりと反転して、お岩と小平の死体がそれぞれに恨み言を述べるといった趣向だ。〈戸板返し〉の機会など滅多にあるものではない。わたしはおとなしくレントゲン撮影を受けるふりをしながら、心の中では、「伊右衛門さま~」と恨みの声をあげて、『四谷怪談』ごっこを満喫させてもらった。かようなお楽しみもあるので、皆さまにも胃がん検診はぜひ受けてもらいたいと思うのであった。
香炉 旗指物 角盥
トノサマ