瀬川貴次の万物ぶらぶら(仮),segawa takatsuga no bambutsu burabura illustration 星野和夏子

其の十:闇に響く謎の声

真夜中にどこからか聞き慣れぬ不気味な声がしようものなら、誰しもがおびえ、震えあがることだろう。ちなみに、うちでフローリングの部屋にいると、夜中の12時くらいに女のひとの楽しげな笑い声(「ふふふふ」みたいな)が聞こえてくることがたまにある。とはいえ、かつては相当な怖がりであったわたしも、いまやかなり図太くなり、「近所に陽気な奥さんが住んでいるんだなー。夫婦円満なら良かった良かった」で、片づけている。いつだったか、真夜中の廃校に潜入、といった心霊企画をテレビでやっているのを観た。いかにも何かが出そうな荒れた体育館にタレントさんが籠もっていると、どこからか「ひぃ……」といった不気味にかすれた声が聞こえてくる。ナレーションは「子供の声がマイクにとらえられた!」とあおりまくっていたが……。申し訳ないけれど、あれはおそらく、野鳥のトラツグミの鳴き声だと思う。ウズラに似たシルエットの、黒と黄色のトラ模様をした鳥で、「ひぃ……、ひぃ……」と、風に揺れるブランコの軋みのごとき声で鳴いてくれるのだ。NHKの大河ドラマでも、夜の不穏な雰囲気を醸し出す効果音として、トラツグミの鳴き声は多用されている。夜行性なので、わたしも残念ながらその姿を目撃した経験はないが、声だけならば夏の夜の別荘地でよく耳にした。もちろん、自分のではなく、友人の別荘に滞在していたときの話だ。真っ暗な草むらの奥から、細くかすれたような鳴き声が聞こえてくるものだから、知らないひとはかなり驚くらしい。ところがある年の夏、別荘の外から聞こえてきたのは「ひーっ!」といった、妙に力強い鳴き声だった。「ト、トラツグミ? いつもと違ってすごく元気だけど、本当にトラツグミか? ずいぶんと個体差、激しいな」と、正直あきれてしまった。そうしたら、次の日の夜、また外から「ひぃ……」といかにもトラツグミらしい、弱々しい鳴き声が聞こえてくる。「これこそトラツグミだよなぁ。じゃあ、昨日の晩、外で響いていたのは別の生き物の声だったのかな?」と首を傾げていたら、元気な「ひーっ!」がまったく違う方向から聞こえてくるではないか。そればかりか、正統派トラツグミの「ひぃ……」と、「ひーっ!」がきちんと交互に響いてくる。「な、鳴き交わしている!?」どちらが雄でどちらが雌かは不明だが、確実に彼らは交信し合い、距離を徐々に縮めていた。失礼ながら勝手にアテレコしてみると、「ひぃ……(はい、彼女ぉ……)」「ひーっ!(な、何よ!)」「ひぃ……(お茶しない……?)」「ひーっ!(ふ、ふん。少しだけよ!)」みたいな感じだろうか。やがて、声の主たちは別荘の真ん前で合流し、互いに鳴きながら寄り添い、夜の彼方へと遠ざかっていった。こっちはカップル成立の瞬間を目ではなく耳で知覚し、ちょっと感動したものだ。そういえば、もうずっと昔、複数の友人たちと八ヶ岳に行ったときのこと。二泊ほどしたのち、帰路に就くべくタクシーで駅に向かっていたのだが、その車中で友人のひとりが、「今朝、目を醒ましたら外で『ベエベエ』っていう鳴き声がしてたんだけど、誰か聞いた?」と言い出した。その場の誰もが、そんな声は聞かなかったと証言した。「そっかぁ。あれって鹿の声だったのかなぁ」と、当人がちょっと嬉しそうにつぶやいた途端、それまで沈黙を守っていたタクシーの運転手さんが妙にニヒルな口調で、「鹿は……ピーッって、口笛みたいな声で鳴くんですよ……」と言うではないか。鹿説を否定された友人は、「でも、確かにベエベエって。じゃあ、鹿じゃないなら、なんだったんですか」地元のひとなら何か知っているに違いない。そんな必死さで友人はタクシーの運転手さんに食らいついたが、「ベエベエ……。知りませんねえ……」やっぱりニヒルに返されてしまった。「えっ、じゃあ、じゃあ、わたしが聞いた濁音はなんの声だったの……!」と、その友人はひどく狼狽えていた。早朝の森にたたずむ幻想的な鹿の姿を思い描いていたのに、それを完全否定され、ウシガエルか何かと間違えたんじゃねえかと嘲笑されたように感じたのかもしれない。気の毒に。わたしはそのとき、「ベエベエって牛の鳴き声っぽいな。鹿も牛も偶蹄目だし、鳴き声が似ることもあるんじゃないかな」とは思ったものの、自信がなかったので口は挟まないでおいた。すまない。そうしたらば最近、発情期の雄鹿が低音の牛っぽい濁音で「ボーボー」と鳴くことがあると知った。発声してみればおわかりになるだろう。「ボーボー」と「ベエベエ」は、だいぶ近い。どちらも子音が「b」だ。つまり、かつて友人が耳にした「ベエベエ」は当人が主張していた通り、鹿の鳴き声ではなかったろうか。ちなみに口笛のような高音は、雌鹿が警戒音として発するらしい。タクシーの運転手さんの発言も、けして間違いではなかったのだ。世界はさまざまな音で満ちている。イレギュラーなトラツグミもいるし、鹿は濁音で鳴きもする。うちの近所には陽気な奥さんが住んでいる。空気が澄んで音が響きやすくなる冬のこの時季、あなたも夜のささやきに耳を傾けてみてはいかがだろうか。意外な音を拾って、世界の新たな一面を知ることができるかもしれないから。
香炉 旗指物 角盥
トノサマ