CONTENTS
- 1.
『三月は深き紅の淵を』何についての物語か
- 2.
『三月は深き紅の淵を』のあらすじ
- 3.
『三月は深き紅の淵を』構成への考察
- 4.
『三月は深き紅の淵を』受け取ったメッセージ
- 5.
『三月は深き紅の淵を』#気になる一文
- 6.
今月の書籍紹介
- 7.
今月の読書コラム
- 8.
フォトギャラリー
みなさん、こんにちは! THE RAMPAGEの岩谷翔吾です。
『岩谷文庫~君と、読みたい本がある~』第24回でご紹介するのは、恩田陸さんの小説『三月は深き紅の淵を』。昨年Twitterで実施した「岩谷文庫リクエスト」で、@sugarsugarpinkさんが勧めてくださった一冊です。ありがとうございます!
「作者は明かすな/一人につき一晩のみの貸し出し/コピーは厳禁』という条件付きの幻の本をめぐる4つの短編集。本って楽しいな! と再確認出来た一冊でした。不思議な感覚やワクワクが止まらない作品です。翔吾くんはどのお話が好きですか?」
という紹介文に興味を惹かれて読んでみたのですが……この本が「面白い」と言える人は、相当ガチな本好きだと思います(笑)。それぐらいユニークで、他に類を見ない物語でした。
この本のあらすじには、「たった一人にたった一晩だけ貸すことが許された稀覯本(きこうぼん・すごく珍しい本のこと)『三月は深き紅の淵を』をめぐる珠玉のミステリー」と書かれていて、「正体の分からない本を探すミステリーなんだ。本探しの話なんだ!」って想像するんじゃないかと思います。でも……実は違うんですよね。いわゆる謎解きものではないというか、あらすじを素直に受け取って、本探しミステリーだと思って読むと、逆にこんがらがっちゃうかも。いや、「幻の本を探す」というのも、確かに物語のひとつのフックではあるんですが、本質的なテーマはそうじゃない。いったんそのイメージは捨てましょう(笑)。
じゃあ、この作品はいったい何についての物語なのか?
僕の言葉で表現するとしたら、『三月は深き紅の淵を』は、「物語の誕生」についてを知る話です。読者としての僕たちは、日ごろ当たり前のように本を消費しています。僕自身、これまでは小説ってどこかからポコッと生まれてきたようなものだと思っていて、作者がどれだけの人生や時間を費やして物語を生み出しているかなんて、考えたことがなかった。でも、『岩谷文庫』の企画に2年間チャレンジして、これまで以上に読んだり書いたりという行為を深く経験したことで、色々な創作物への見方が変わり始めました。
たとえば映画。これまでは単に表面のストーリーを楽しんで「面白い映画だな」で終わっていたけれど、それは裏側に監督や脚本家、演出家などの作り手の意図があるからこそ面白い映画になっているわけで。そういう、作品の奥の部分まで掘り下げて考察した方が、より興味深く作品を鑑賞することができるなと感じるようになったんです。
この作品を読むと、「物語を生み出す」ってどういうことなのか、書き手の立場で語られるプロセスを知ることができる。最初はあらすじ通り、ミステリーだと思って読み始めたんですけれど、途中でこれは「物語の誕生」について知るお話なんだ、と気づいて腑に落ちました。ちょうど、僕自身も未熟ながら書くことを始めていた時期だったので、作中で語られる内容には共感することが多かったです。
考えてみれば、一冊の本には作者が得た膨大な人生の経験や、それによって培った知識や思考が注ぎ込まれていて、それをたったの数百円や千円ちょっとで手に入れることができる。これってすごい破格だし、その値段で人の頭の中を見られるわけですから、読書ってどれだけコスパよく情報をもらえているのかって、改めて「本」の価値とありがたみに気づかされました。
いきなり「あらすじに『ミステリー』とあるけれど、この物語は『本探しミステリー』じゃないですよ」とお話したので、みなさんを混乱させたかもしれませんね。あらためて『三月は深き紅の淵を』の内容について、僕なりにご紹介したいと思います。
この作品は、「三月は深き紅の淵を」というタイトルの本をめぐる四つの物語が収録された短編集です。四つの物語は、まったく関連のない物語なのですが、俯瞰して読んでいると、どこかうっすらと繋がっているようにも思えます。
第一章は「待っている人々」。
ある会社員が、読書が趣味だという理由から勤務先の会長の別宅に招待され、そこに集った会長の友人達と「この屋敷の中にある『三月は深き紅の淵を』という稀覯本を探す賭け」への参加を命じられます。
作中では「三月は深き紅の淵を」の正体が徐々に語られ、でも語られるにつれ分かりそうかと思えば分からなくて……まるで雲を掴むような、すごく幻想的な話です。今、僕たちが手に取るような本って、クチコミである程度結末が分かっていたり、宣伝の時点で「驚愕のラスト!」とか示唆されたりするものが多いし、読者もそういう本だと思って選ぶことができる。本ってこの世に無限にあって、選択肢が多いからこそ、ついそういう事前情報を参考に選んでしまいがちですよね。でもそれによって、本当に自分の好きな本、読みたい本に出会える可能性が限定されてしまっている気もする。
この作品が刊行されたのは1997年で、そういうクチコミ文化が発達する前ではありますが、今読むと「お手軽に面白いところだけ切り取ってつまみ食いしたい」という現代人的な考えに、「本当にそれでいいの?」って皮肉を投げかけられているようにも感じられるなと思いました。
第二章は「出雲夜想曲」。
二人の女性編集者が、幻の本「三月は深き紅の淵を」の作者を探すために、夜行列車で島根県の出雲へ旅立ちます。二人は車中で酒を酌み交わしながら、「三月は深き紅の淵を」の作者はどんな人間で、なぜ正体を隠したままこの本を書いたのかについて考察を進めていきます。
この章は、本そのものについてではなく「誰が書いたのか」がテーマの謎解きです。でも、作者を探すお話でありながら、「物語は読者のために存在するのでも、作者のために存在するのでもない。物語は物語自身のために存在する」という強烈な一文が織り込まれていて、僕はこの一文に、『三月は深き紅の淵を』という作品全体を貫く本質的なメッセージが託されていると感じました。
一人の人間はちっぽけで、その命には限りがあるけれども、その手で生み出された物語は生き続ける。「どんな苦しみを経験しても書き残したい物がある」という、書き手の「念」をひしひしと伝えてくるこの物語。僕は読者視点でも作者視点でも読んで、そこに籠められた恩田陸さんのメッセージを受け取って、本当に心を衝き動かされました。
第三章は「虹と雲と鳥と」。
一作目、二作目に出てくる「三月は深き紅の淵を」には共通の特徴があり、同じ本を探している話だと思うのですが、三作目は全然違う話なのでびっくりしました。
ある町で、二人の女子高生が転落死します。二人は自殺しようとしたのか、それともどちらかがどちらかを殺そうとした末の事故死だったのか。彼女らの周囲にいた人々の口をから、生前の二人の姿が語られていきます。実は二人には、誰も知ることのないある繋がりがありました。
二人の女子高生の片方は、生前「作家志望だ」と口にしていました。そして、かつて自分の家庭教師をしていた女性に「いつか書きたい物語がある」と示唆し、創作メモのような手記を彼女に残します。「もし、あたしが書けなかった時は、先生、代わりに書いてね」――そう、あたかも、それが彼女の遺書であるかのように。
この章を通して、「なぜ人は物語を書くのか」という根本のテーマが、第二章に続いて再提示されていると僕は感じました。人の命には終わりがあるけれど、物語は不死であり、語り継がれることにより生き続ける力をもつ。逆にいうと、そういう物語をこそ書きたい、という作者の決意表明になっているんだろうなと。作者である恩田陸さんは、この物語を通して、書き手としての誓いを立てたんじゃないかなとも感じました。
最後の第四章は「回転木馬」。
ある作家の一人称で語られる、新作のアイデアと、どうやら彼(?)が書いたらしき物語が入り乱れて綴られるという、ちょっと変則的な構造の物語です。読んでいると、なんだかぐちゃぐちゃした構成のように感じられてしまうのですが、どうやらこれは、書いている最中の作者の頭の中を端的に表しているんじゃないかと。書くって孤独な作業ですし、自分の心を裸にして「私はこう考えているんです」と人に提示する作業でもある。それってすごく勇気ある行動だけれども、ふとそんな自分を俯瞰したら、すごく空しい行為にも思えるのかもしれません。
作中に、「私は子供の頃からメリー・ゴー・ラウンドが嫌いだった」から始まる一節が登場します。ここはおそらく、回転木馬に乗っているのが作者視点。その作者が乗る回転木馬を外から見ているのが読者の視点として描かれています。主人公の作家は「張りぼての馬に乗って、同じ所をぐるぐる回る行為は屈辱的だ」と嘆きますが、これはまさに、物語の産みの苦しみそのものを表した表現なのではないかと感じました。
第一章の「待っている人々」は、作品のあらすじ通りの「本探しミステリー」です。冒頭に配置されているだけあって、設定が面白いしエンタメ性も高い。舞台やドラマ化したらすごく面白そうだなと感じましたし、個人的には主人公の鮫島を演じてみたいなと思うぐらいでした。本好きからしたら、たまらなくワクワクする設定ですよね。
でも、第二章からそのあとは、読み進めるうち「あれ、僕はなんの話を読んでいたんだっけ?」と分からなくなってしまうような、幻想的な入り組んだ内容なのがこの作品の特徴です。最初は「本探し」がテーマに見えて、結局のところ、幻の本である「三月は深き紅の淵を」は登場せず、その実態も分からないまま終わってしまう。ただし物語の中では様々な「三月は深き紅の淵を」という稀覯本の可能性がパズルのピースのように示されていて、読み終える頃には、読む人それぞれオリジナルの「三月は深き紅の淵を」が脳内に完成されているような気がしました。
作中で繰り返し語られるように、物語には無限の可能性があって、読む人は自由に自分の中の「三月は深き紅の淵を」を完結させていい。あらすじから結末まで提示された分かりやすいものが好まれる今だからこそ、答えを読者の自由な想像に委ね、ひとりひとりの解釈に託したこの小説は、本当の意味で読書の醍醐味が味わえる作品なのかもしれません。
本好きで読書に慣れている人って、本を読んだ時に、自分が感情移入できる登場人物を見つけて、その人物の視点ですんなり物語に入っていける、ということが多いのではないでしょうか。
僕も普段はそういう読み方をするのですが、『三月は深き紅の淵を』は、誰かに感情移入するということがない作品でした。物語に没入するのではなく、どこか全体を俯瞰して読む。どちらかというと、読者でありながら作者に近い視点……いや、すぐそこに作者の視点はあるんですけれど、さらに外側からそれを見ているイメージで、どちらかというと編集者の視点に近いのかも。「物語とはこういうものなんだ」と、強制的に引いた位置から、自分の感情を殺して物語を追うような感覚がありました。
ここまで読んで「ちょっと自分には難しそう」と感じている方がいるかもしれません。でも、これまで一緒に『岩谷文庫』を走ってきてくれた皆さんなら、きっとこの本を楽しんでもらえると思います。
入り組んだ構成の物語ですが、意外に迷子になることなく読める。それは、ひとえに恩田さんの筆力あってこそです。描写が的確で、脳内にクリアに像を結ぶ。たとえ同じようなアイデアを他の人が考えついたとしても、あまりの複雑さに書くことを諦めてしまいそう。きっと恩田さんだからこそ、この作品は完成したんだろうなと思いました。
作品に籠められた創作への念と、トリックだらけの複雑な構成。たとえば四つの物語の中には、「小泉八雲」を彷彿とさせる人物が、カメオ出演みたいにほんの少しずつ登場していて、それが第四章の「回転木馬」の語り手によって明かされるという凝った演出がなされています。僕は最初この演出を完全に流して読んでしまっていて、コバルト編集部の方から言われて初めて気がついたんですが、きっとそういう仕掛けは他にもある気がする。
もしかすると、この本は恩田さんから、僕たち読者に対する挑戦状として書かれたのかもしれませんね。
「物語という概念」について綴ったこの本を読み終えた時、漠然と「人間とは、自分が生きた証を残したい生き物なんだな」という感想が浮かんできました。それは一種の承認欲求なのかもしれませんが、「自分の名前」そのものよりも「自分が生み出した何かが残ればいい」というのは、もうワンステップ上がった感じなんじゃないかなと。
たとえば、教育者の方は、自分の哲学が教え子に伝わって、教え子達の中でその哲学が生きていくことに意義を見出して活動される。物語にも、物語という形だからこそ伝え残す力があるんじゃないでしょうか。
僕自身はこの作品を読んで、一人の表現者として刺さるところが本当に多かったです。
第二章の「出雲夜想曲」に、こんなくだりがあります。
「名作や傑作って、インパクトはあるし感激するけど、意外にすこんと抜ける。(中略)印象に残る作品っていうのは、どこか稚拙で完成度が低いけど、アクの強いオリジナリティのあるものの方でしょう」
ここを読んで、「あぁ、ダンスも同じだな……!」と。
ダンスって、上手く踊ろうとしても心に響かない。上手いダンサーって、本当に死ぬほどいます。僕より上手いダンサーのほうが多いと思うくらい。でも、上手いだけのダンスって、見た瞬間「すごいな、かっこいいな」とは感じるんですけれど、つるっと抜けてしまって案外記憶に残らなかったりする。反対に、たとえ技術が劣っていても、その人の心や魂が溢れた瞬間、そのダンスは見る人を感動させられるんだと僕は考えています。
アーティスト級のダンサーになると、踊った瞬間に場の空気を変えるものですが、単に技術が上手いだけでは空気は変えられないし、人の心にも響かない。踊ることにせよ書くことにせよ、重要なのはきっと魂を燃やして取り組むこと。人に何かを届けるって、ある種自分を削って届ける面があると思います。たとえば、僕たちがライブをする時は、会場のお客さん一人ひとりに届けようという気持ちでいる。だから踊っていると自分の精神が削られて、それがまるでお客さんに吸い取られていくような感じがするんです。
単純に例えるなら、一人一人に心から「ありがとうございます!」っていうのを一万回やったらしんどいじゃないですか。それをダンスでやっていると想像してもらうと……もう終わった後はぐったりです。肉体的というより精神的に削ってる感があるので、それをカッコよく言うと「魂を燃やす」なのかなと。
小説も、文章が上手いから刺さるかっていうとそうではなくて、たとえば第22回でご紹介した兼近大樹さんのデビュー作『むき出し』は、長年研鑽しているプロの作家の方と比べると、文章技術的には未熟なところもあるのかもしれない。でも「これを書きたい、伝えたい」という思いが本当に凄まじかったので、僕の心に深く突き刺さりました。
そして、『三月は深き紅の淵を』を読んで、作家の頭の中を垣間見たり、作家の産みの苦しみを間近に突きつけられたような感覚になった時、自分も表現することについて、日々途方に暮れまくりながら挑戦しているな……と、深く共感しました。書くことも、踊ることもです。
表現することに、限界はない。だからこそ、表現を突き詰めれば突き詰めるほど壁が立ち塞がってきて、途方に暮れます。ダンスでいえば、僕たちはこれまでEXILE TRIBEの男気とバイブスでやってきたけれど、今世界で評価されている韓国のアーティスト勢は、バイブスにシンクロ率やスマートさ、繊細さを加えて、クオリティを追求したダンスで評価されている。今、僕たちは、これまでのやり方一辺倒ではそのクオリティに勝てないと突きつけられているので、日々途方に暮れながらトライアンドエラーを繰り返しています。そんな時はまさに第四章に出てきた「メリー・ゴー・ラウンドに乗っている」感覚ですね。
でも、表現を届けるって、そうやって一生自問自答を繰り返すことなのかもしれない。
そして僕は、踊って表現する、書いて表現するなど、いくつも表現の方法を持てている自分を幸せだなと感じています。いろんな表現方法があることは、表現者として生きていく上で、客観的に見てもすごく武器になるし、いろんなジャンルに挑戦できるチャンスがあることがそもそも幸運なこと。
今年の初めに上演させてもらった朗読劇『さくら舞う頃、君を想う』も、新しい挑戦でしたが、本番は本当にドキドキしていました……。演出とかも、時間に追われ正直やり残してしまったこともたくさんありました。文章の上手さって、今でも頑張っているのですが、やっぱり昔から書いている人たちに比べたら努力しても雲泥の差があると思うんです。もちろん頑張るのですが……でも一方で、僕が表現をするのは、上手い文章が書きたいからというわけではないな、と。
今の自分は、何事に対しても頑張って魂を燃やして、荒削りでも自分の伝えたいことや表現したいことを突き詰めていきたいなと、常に己を奮い立たせています。
これは第三章「虹と雲と鳥と」に登場する一文です。
物語という概念について様々な角度から言及されてきた中で、でも結局人は何のために書くのか、と考えた時、きっとこの答えにたどり着くのではないかと。人によっていろんな方向性はあると思うんですけれど、表現することって、究極は自分にしかできない表現で世の中に愛や生きる希望を届けたい……となるんじゃないかな。
結局、人間は愛なくして何かを成し遂げることはできない。ここは、そういう人としての原点に立ち返った言葉だと捉えましたし、人の原点から湧き上がった「書く」行為の結実だからこそ、後の世に残りうる作品になるのではないかな、と思いました
二年に渡り岩谷文庫を応援してくださった皆様、スタッフの皆様、本当にありがとうございました!
岩谷文庫を通して自分も夢が広がり成長する事が出来ましたし、本を通して応援してくださる皆さんと心から繋がれた連載だったと思います。
そして出版社の枠を超え、良い本を愛情たっぷり紹介しよう!と実現してくださった岩谷文庫チームの編集部の皆さん。
心の広さ…この場を借りて感謝申し上げます。
皆さんにも本に対する愛情が少しでも伝わっていれば嬉しいなと思います。
連載は一区切りですが、終わった訳ではありません。
岩谷文庫チームの皆さんとまた新たな夢を実現し、これからも皆さんに喜んでいただけるエンタテインメントを発信していきます。
最終回のコラム写真はあえてこの写真にします、、
これからも変わらぬ温かい応援の程よろしくお願いいたします!
二年間ありがとうございました!