『岩谷文庫』は、ダンスと読書が大好き! THE RAMPAGE from EXILE TRIBEの岩谷翔吾さんが、フレッシュな視点でおすすめの本を紹介してくれる、ほぼ月イチブックレビュー連載です。読書を愛するあなたや、気になるけれど何を読んだらいいかわからないあなた。日々の生活にちょっぴり疲れてしまって、近頃本を読めていないあなたへ。あなたの心の本棚にも、『岩谷文庫』を置いてみませんか?
みなさん、こんにちは! 『岩谷文庫~君と、読みたい本がある~』は、おかげさまで、第10回を迎えることができました。4月~5月にかけてTwitterで募集した「#岩谷文庫リクエスト」企画にも、沢山の方が色々な本を紹介する投稿をしてくださり、本当にありがとうございました!
リクエスト企画第一弾となる今回は、@aoi_hanaaaさんオススメ、ダニエル・キイスさんの『アルジャーノンに花束を』についてご紹介したいと思います。
まず、「#岩谷文庫リクエスト」をきっかけにこの本を読めたこと、僕はすごく幸せに思っています。みなさんから教えてもらわなければ、きっと自分からはなかなか手にする機会がなかっただろうからです。こんな素晴らしい本に出会わせていただいて、本当に感謝の気持ちしかありません。@aoi_hanaaaさん、ありがとうございます!
もちろんこの本以外にも、数え切れないほどのリクエストをいただきました。『岩谷文庫』読者のみなさんは、本当に本が好きなんだと伝わってきて、嬉しかったです! ちなみに、次回も、リクエスト本の中からもう一冊紹介させて頂きますのでお楽しみに。
これからも、こんな風に一冊の本を通して感想を交換しながら、みなさんと繋がっていけたら幸せです。
『アルジャーノンに花束を』―― 一度聞いただけで印象に残るタイトルです。
実際に読んだことがない方でも、「タイトルは知っている」という人は多いのではないでしょうか。日本では1989年に刊行されて以来30年以上、幅広い世代に読み継がれている不朽の名作です。
僕にとって、海外文学を読むのは今回が初めての経験でした。
意識して選んでいたわけではないんですが、これまで読んだ本は日本の作家が書いたものばかり。「#岩谷文庫リクエスト」のハッシュタグを見させてもらって、何作か海外文学のタイトルに目が留まった時、ふとそのことに気づきました。そして、読書が好きと言いつつも、海外の作品にあまり目を向けてこなかった自分の視野って、実は狭いんじゃないだろうか……? と、ハッとして。それで、今回オススメしてもらったのはいいきっかけだなと思い、この本を選ばせて頂きました。
【※レビュー内には本編のネタバレが含まれますので、ご注意ください。】
「これはちょっと……僕には読めない」
わずか数ページで挫折を感じた、初めての読書体験
『アルジャーノンに花束を』は、有名なタイトルですし、「世代をこえて読み継がれているロングセラー」「泣ける本」だとは聞いたことがありました。でも、どんなお話かまで知っている人はあまり多くはないのではないでしょうか。まずは、そのあらすじについてご紹介していきたいと思います。
この物語の舞台は1950年代のアメリカ・NY。主人公は、チャーリイというパン屋で働く男性です。
彼は重度の知的障害を持っていて、32歳になっても幼児並みの知能しかありません。そのため、大学付属の知的障害成人センターへ通い、簡単な勉強をする暮らしを送っています。
そんなチャーリイに、転機が訪れます。大学の先生が、手術でチャーリイの頭をよくしてくれるというのです。ある理由から「かしこくなりたい」という切実な願いを抱いていた彼は、喜んでこの手術を受けることにしました。
手術前の検査では、迷路を解く速さで白ネズミのアルジャーノンにさえ負けてしまっていたチャーリイですが、手術後にはみるみる知能が向上し、もとのチャーリイとは別人のようになっていきます。
チャーリイには、天才になって初めて分かったことがたくさんありました。それは読み書きや知識だけではありません。職場の仲間や大学の先生といった周囲の人々が、「ばかだった」過去の自分、そして天才になった今の自分をどんな目で見ているのか。人を愛すること。人を憎むこと。まだ家族と暮らしていた頃、母や父、妹が、幼い自分とどのように接していたのか。
さらに、賢くなる前には知る由もなかった残酷な事実が彼に突きつけられます。手術によってもたらされた天才的な知能は一時的なものでしかなく、いずれもとの状態か、それ以上に退行してしまうことになるというのです。
この小説の特徴は、「チャーリイが書く日記」という形で書かれているところです。
もし本が手元にある人は、最初のページをパラパラとめくってみてください。
書き出しは、こんなふうになっています。
「けえかほおこく1――3がつ3日
ストラウスはかせわぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼくのまわりでおこたことはぜんぶかいておきなさいといった。なぜだかわからないけれどもそれわ大せつなことでそれでぼくが使えるかどうかわかるのだそうです。ぼくを使てくれればいいとおもうなぜかというとキニアン先生があのひとたちわぼくのあたまをよくしてくれるかもしれないといたからです。ぼくわかしこくなりたい。ぼくの名まえわチャーリイゴードンでドナーぱん店ではたらいててドナーさんわ一周かんに11どるくれてほしければぱんやけえきもくれる。ぼくの年わ三十二さいでらい月にたんじょお日がくる。……(後略)」
つまり、最初に綴られるのは、知的障害者であるチャーリイが書いた文章そのもの。初めて見たときは「これが小説なの?」と驚くと思います。改行も「、」もなく、ページにびっしりとひらがなが詰まっていて、読みやすい文章とは言えません。正直に言うと、僕は最初の数ページを読んだ時点で「これはちょっと……僕には読めない」と思って、しばらく寝かせておいてしまったんです。普段は本を読んでいてそんなことはあまりないので、これは結構、衝撃的な読書体験でした。
『アルジャーノンに花束を』の原文は英語で書かれているわけですが、例えば「は」と「わ」の間違いは、英語だといったいどんな表現になっているのか? そして、翻訳する時、そういった英語の「間違い」をどうやって日本語で表現しようと決めたのだろう? と、まずそこが気になりましたし、翻訳家の方は本当にすごいなと。これについては、巻末の「訳者あとがき」で触れられているので、興味のある人はぜひ読んでみてください。
チャーリイが手術を受け、知能が急激に上がり始めると、小説の文体もガラッと変わります。誤字だらけで単純だった文章は次第に「普通の」大人が書くような文章になる。さらに彼の知能が向上し天才レベルになると、今度はチャーリイの使う語彙や表現が難しすぎて、彼が何を言おうとしているのか理解が及ばなくなってしまう。
天才になったチャーリイの日記は、一生懸命読んでもなかなか頭に入ってこなくて、序盤とはまったく違う意味での読みづらさがありました。そして物語の終盤、チャーリイの知能が退行を始めると、彼の文章は崩れるように再び拙いものへと戻っていきます……。
この作品を読む行為は、チャーリイの知的レベルを理解する行為そのものです。
最初は「こんな文章、読めないよ」と思っていたけれど、あえて読みづらい文章で書かれているのにはちゃんと意味があることに気づかされますし、それが分かれば、読むのが苦にならなくなるはずです。
むしろ、最後にはその読みづらい文章に、「がんばれ、がんばれ」と思っている自分がいる。これは、この作品の表現方法でないと体験できない気持ちだと思います。チャーリイ視点で書かれた彼の日記を読むうちに、自然と自分もチャーリイの目を通して世界を見て、彼に感情移入していくことになるからです。ですから、最初の数ページで戸惑っても、信じて読み進めてみてください。
この本を読み終えても僕は泣けなかった。
それよりも、チャーリイを思うと胸が苦しくなった。
『アルジャーノンに花束を』を読み終えた時、ため息よりももっと大きくて深い、深い息を吐きました。この本は口コミで「感動する」「泣ける」と言われているけれど、僕の場合、感動よりももっと、やるせないというか。「泣ける」じゃなくて、「悔しい」という気持ちの方が大きかったんです。
チャーリイの知能は、まるでジェットコースターのように急上昇・急降下し、ラストには、赤ちゃんみたいなまっさらなチャーリイになってしまいます。でも、人への憎しみや怒りの感情を知って、傷つき、傷つけても、それをすべて失っても、彼の心には最後まで「人の心が本来持っている優しさ」が残っていた。それを感じた時、本当に胸が苦しくなってしまいました。
もしもチャーリイみたいな人が身近にいたら、僕は何ができるだろう。
きっと僕は戸惑うばかりで何もできないだろうと思いました。きれいごとはいくらでも言えます。
もしもチャーリイみたいな人が身近にいたら、僕は何ができるだろう。
きっと僕は戸惑うばかりで何もできないだろうと思いました。きれいごとはいくらでも言えます。
でも、僕は、自分をそんなできた人間だとは思えない。いざ実際にチャーリイに直面したら、何もできないし、何も声をかけてあげられないと思うんです。そもそも、どうしてあげたら…って言葉が出る時点で、傲慢なのかもしれない。
知能が低かった頃のチャーリイは、とても優しい人だけれど、自分が友達だと思っている周囲の人々から本当は見下されていることに気がつかない。天才になったチャーリイは、それに気づいて怒りっぽく傲慢になり、逆に周囲の人たちを見下すようになってしまう。
そんな風に彼が変化していく中で、僕が共感できるとしたら、知能が上がり始めたばかりの頃のチャーリイかもしれません。ちょうど、周囲の人々が本当は自分をどんなふうに扱っていたのかを理解して、「自分はみんなと同じ人間なんだ」と、自己主張を始める段階です。周囲に対して自分はこうだと訴えてぶつかっていけるのって、自分と周囲が同じステージにいるからだと思うんです。知能が高くなって周りを見下すようになったら、けんかをする気も起らなくなると思うので。
それは作中で彼の周りにいる人も同じ。最初はチャーリイの先生として、やがて恋人のような存在になるけれど、天才になったチャーリイに劣等感を抱きすれ違ってしまうアリス・キニアン先生は、まさに読み手の気持ちを代弁するキャラクターだと思いました。
チャーリイの人生に起こったことは悲劇なのか。
それでも、僕はこの結末を「救い」であってほしいと願う。
タイトルにもなっている「アルジャーノン」は、チャーリイが通っていた研究室で飼育されている実験動物で、彼と同じ知能向上手術を、彼よりも先に受けていたネズミです。
そのため、チャーリイが出会った時のアルジャーノンはすでに高い知能を持っていて、ネズミでありながら知能テストではチャーリイよりも優れた成績を出していました。その後同じ手術によって天才になったチャーリイは、アルジャーノンと孤独な友情を結んでいました。ところが、ある時を境に、アルジャーノンは精神が不安定になり、錯乱しながら知能も急速に退行し始めます。
アルジャーノンは、チャーリイにとってライバルであり、友人であり、よりどころでもあった。そんな彼の目の前でアルジャーノンに訪れた残酷な変化は、そのままチャーリイを待つ未来そのものを意味していました。僕には、チャーリイにとってアルジャーノンはなにより「自分自身」だった、と感じられました。仲間でもあり、自分の未来でもあり……彼が本当にどう思っていたかは分かりませんが、そのことはあえて日記には書かなかったのではないかと思います。
天才だから、自分に奇跡は起こらないということも分かってしまっている。だから希望にすがることもできず、アルジャーノンと同じ運命が訪れるのをただ待つしかない。
今自分が持っている天才的な知能が、まもなく失われてしまう。
その直前に、チャーリイが言った言葉に、僕は大きな衝撃を受けました。
「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです。/ぼくの知能が低かったときは、友だちが大勢いた。今は一人もいない。そりゃ、たしかにたくさんの人間は知っている。(中略)でもほんとうの友だちは一人もいやしない。(後略)」
賢くなり過ぎてしまったために、小難しげな書き方になっていますが、これはこの物語を象徴するセリフだと思います。
そして、タイトル回収ともいえるラストシーン。読み終えて、僕は「なんてやるせない物語だろう」と思いました。同時に、最後にチャーリイが見ている世界は、なんて澄み切っているのだろう……とも。
この結末は、読む人によっていろいろな受け取り方があると思いますが、僕は、これがチャーリイにとって「救い」であってほしいと願わずにはいられません。
「かしこくなりたい」というチャーリイの叫び。
人が幸せになるために、頭の良さは大切なのか?
本作を読んで印象に残るのは、チャーリイが、物語の最初から最後まで、一途に「かしこくなりたい」と言い続けていることです。
その強い願いは、彼の家庭環境に大きな原因があります。
チャーリイは、手術のリスクなんて何も理解していなくて、ただただお母さんに褒められたい一心だったはず。でも、手術が成功して果たした家族との再会が、はじめ思い描いたものとは違っていたこと、さらに知能が急激に後退していくことを自覚したチャーリイが、最後に言う「かしこくなりたい」は、同じ言葉でも少し意味が違うように感じました。彼はきっと天才になった時に「人間には、高い知能を持つよりも大切なことがある」と気づいていた。だからこそ、再び知能が後退していった最後、彼はこんなにもまっすぐで尊い言葉を言えたと思うんです。
「ぼくわりこうになるための二度目のきかいをあたえてもらたことをうれしくおもています/なぜかというとこの世かいにあるなんてしらなかったたくさんのこともおぼいたし、ほんのちょとのあいだだけれどそれが見れてよかたとおもているのです」
何かを知ること、学んで理解していくこと。それが難しい内容なのかどうかはもう関係なくて、知ることへの純粋な喜びが、きっとチャーリイの中にはあった。僕は、このチャーリイの言葉を読んで、そう感じました。
「金や物を与える人間は大勢いますが、時間と愛情を与える人間は
数少ないのです。そういう意味ですよ」
「金や物を与える人間は大勢いますが、時間と愛情を与える人間は数少ないのです。そういう意味ですよ」
これは、養護学校施設の見学に訪れたチャーリイに対して、施設の心理学者が言う言葉です。作中では、知的障害を持つ生徒たちを親身に世話できる人間がいかに貴重な存在であるか、という意味で書かれているのですが、ハッと気づかされたことがあります。
それは、自分の親が与えてくれた愛は、まさしくここで語られている「無償の愛」だったなということです。
誰かが社会に出た時、ねこじゃらしで猫を釣るように、お金や物でくすぐってくる人って、たくさんいると思うんです。特に、芸能界という華やかな世界に身を置いていると、美味しい話はそこら中に転がっていますし、口がうまければいくらでも話を美味しそうに見せることはできる。そんな「ねこじゃらし」に、ついよろめきそうになることは正直あります。でも、そういう人って、例えば僕がTHE RAMPAGEではなくなったら、すぐそのねこじゃらしを離して、また違う人をくすぐり始めると思うんです。
そんなことを考えた時に、改めて「親の無償の愛情」ってすごいな……と。僕の親は、僕がどんな肩書で、どんなところに立っていても変わりなく一人の息子として接してくれます。そして、僕が富や名声を得たとしても、間違ったことをしたら「それは違うよ」って指摘してくれるだろうし、仮にお金がなくてもイキイキと夢を追っていたら「応援するよ」と言ってくれると思うんです。
そういう存在って親に限らず、きっと親友や恋人、いろんな関係でありうるのではないでしょうか。自分にとっては、同じ高校の先輩であり、兄弟のような関係でもあるマネージャーさんもそんな存在のひとりです。仕事でのつながりがあるかないかに関係なく、もしどちらかがLDHをやめてしまっても、ずっと仲良くいられるような気がしています。
自分がどんな風に変わったとしても、本質を見て、無償の愛を注いでくれる人が身近にいてくれれば、そしてその存在を感じていられれば、人はブレることなく信念を持って生き続けられるのではないでしょうか。
『アルジャーノンに花束を』は、読む方の年齢や性別、読むタイミングによっても感想が千差万別になる作品だと思います。例えば十代の時読んだ方が、十年後、お子さんを持つ身になってから読むと、また違う視点、違った感想になるかもしれません。だからこそ、時代を超えて読み継がれていく名作なのでしょう。二十代の今、このタイミングで読んだ僕の感想を読んで、興味を持ってくださった方、初めて手に取る方、久しぶりに読み返す方……いろんな世代の方の感想を、ぜひ広く聞いてみたいですね。
前回のvol.9のコラムで書斎を公開したのが反響良く皆さんに喜んでいただけたので、今回はそのプラスアルファの部分を公開します!
書斎の一番目に入りやすい所に、HIROさんの本やLDHの理念が記された本、そしてTHE RAMPAGEが二週間強化合宿で行かせていただいたお寺の住職の方から頂いた色紙を飾っています。
特に『忘己利他』という言葉が、今の僕を作る上でとても大切な言葉になっています。
字の通り“己を忘れ、人の為に生きる”という意味です。
見返りを求めず、自分が相手にとって何が出来るか、何をしてあげられるかという事をこの言葉から学びました。
未だにあの辛かった合宿期間を思い返すだけで、背筋が伸びます…
初心を忘れる事なくこれからも頑張りたいなと思うことが出来る書斎です!
32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン。そんな彼に夢のような話が舞いこんだ。大学の先生が頭をよくしてくれるというのだ。これにとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に検査を受ける。やがて手術によりチャーリイの知能は向上していく…天才に変貌した青年が愛や憎しみ、喜びや孤独を通して知る人の心の真実とは? 全世界が涙した不朽の名作。
次回の岩谷文庫は…
「#岩谷文庫リクエスト」ツイッター企画にたくさんのご投稿ありがとうございました。
第二弾は、@Nanase_3617さん、@al_hok24さん、@tom_hi_sunさん他からのリクエスト本、
『ツナグ』(辻村深月/新潮文庫)
をご紹介します!
ぜひ次回更新までに、ハッシュタグ#岩谷文庫で読んだ感想を呟いてみてくださいね。
お友達同士で感想を話し合うのも楽しいかも!