みなさん、こんにちは! THE RAMPAGE from EXILE TRIBEの岩谷翔吾です。
『岩谷文庫~君と、読みたい本がある~』第14回は、今村夏子さんの『こちらあみ子』のレビューをお送りします。
この本を知ったきっかけは、映画『花束みたいな恋をした』で、今村夏子さんの作品にふれていたこと。主人公たちが、作中で交わす会話の中に出てきた「その人はきっと今村夏子の『ピクニック』読んでも何も感じない人なんだと思うよ」という言葉です。作中で何度かこの言葉が出て来たので、果たしてどんなメッセージを投げかけてくる作品なんだろう? と、気になって。『こちらあみ子』は表題作を含む短編集で、『ピクニック』もこの本に収録されているんです。
実際に『ピクニック』を読んでみて、映画でなぜこのように言及されているのか、なんとなく理解できました。今の自分が普通に生きていたら、自分から決して覗き込むことはしないであろう陰湿な感情、生きづらさみたいなものを突きつけられた気がして。映画を観て『ピクニック』が気になっている方も多いと思うので、今回『ピクニック』についての細かい紹介はしません。ただ、読み終えた後に自分という人間を思わず顧みたくなってしまうことと、「決して爽やかな読後感の作品ではなかった」ということのみお伝えします。
【※レビュー内には本編のネタバレが含まれますので、ご注意ください。】
それでは、表題作の『こちらあみ子』についてのレビューをお送りしていきます。
本を選ぶ時や読む時、カバーや見返しについている「あらすじ」に目を通す方は多いと思います。『こちらあみ子』についているあらすじは、こんな内容です。
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した(後略)
実は、読み終えてからこのあらすじを見返した時、僕は正直、すごくざらついた気持ちになってしまったんです。あみ子という女の子を「風変わり」「無垢」と表現しているけれど、それは違うんじゃないの? と。事実をオブラートに包んで見せられたような違和感を覚えました。
というのも、あみ子は僕たちが普通に生きていく上で、なんとなく共有している「一般常識」とはかけ離れた感覚の持ち主で、言葉、行動のひとつひとつが周りの人々を振り回してしまう人物として描かれているからです。「インド人のまねをしてカレーを手で食べる」「授業中に歌を歌い出す」「母が自宅で開いている書道教室を覗いて邪魔をする」など、物語の序盤から、あみ子の行動が周囲を戸惑わせたり困らせたりしていることが示唆されています。そんなあみ子が学校に行くのは気が向いた時だけで、行けば行ったで同級生たちから「きもちわるい」と言われ、好きな相手には走って逃げられてしまう。家族からも優しくされているようで、どこか一線を引いた対応をされている。そして、あみ子の「純粋な」行動は、やがて家族や憧れの男子・のり君との関係を粉々に破壊してしまうんです。
あみ子の異質さは、物語のごく序盤から描写されています。
それは、あみ子が母親の書道教室をこっそり覗き見るシーンです。
「あみ子じゃ」
生徒全員、一斉に顔を上げた。
「あみ子が見とるよ。先生」
(中略)
ゆっくりと近づいてくる母のあごの下のほくろを見上げながら、あみ子は堂々と訴えた。「入っとらんもんね。見とっただけじゃもん」
後ろ手に襖を閉めながら、母は息を大きく吐いて娘に言った。「あっちで宿題してなさい」
「エーッ」
「エーじゃありません。行きなさい」
(中略)
「いけません。ちゃんと宿題して毎日学校にも行ってお友達とも仲良くして先生の言うことをしっかり聞いてお行儀よくできるならいいですよ。できますか? 授業中に歌をうたったり机にらくがきしたりしませんか?(中略)できるんですか? できますか?」
伝わるでしょうか?
最初は母親の教室を覗いてみたい女の子の、純粋でかわいい行動かとも思ったんですけれど、どうも違うらしい。なんというか、ホラー小説を読んだ時みたいな不穏さ、イヤな怖さを感じたんです。
この作品を読み進めていくうち、僕は、登場人物の誰にも感情移入できずにいる自分に気付いて衝撃を受けました。あみ子自身「異質」な存在だし、彼女を取り巻くほぼ全員が、あみ子と意思疎通をしようとしない。あみ子に優しく接する父親も、あみ子を受け容れているようで、その実存在しないもののように扱っているという……。あみ子とあみ子以外の関係性を俯瞰していると「他人は他人」という言葉がよぎって、思わずゾッとしました。
作中には、あみ子の憧れの男子として、のり君という男の子が登場します。
のり君は、あみ子のお母さんの書道教室に通っていて、綺麗な字を書く男の子。あみ子はのり君の書く字の美しさに惹かれていたのですが、ある日ふとしたきっかけで彼と一緒に下校し、言葉を交わす。そこからあみ子はのり君にはっきりと好意を寄せるようになっていきます。
でも、のり君はあみ子に決して近づこうとしない。
これだけ書くと、のり君って何だか冷たい人にも思えますよね。でも、僕自身もあみ子のような人が自分の目の前にいたら、きっとまともに向き合えないだろうと思います。
作中であみ子は、のり君に対して「ある行為」をして、それが理由でのり君に暴力をふるわれる…というショッキングなシーンがあります。もちろん暴力は許されないことなのですが、のり君のようにあみ子から執着されたらと思うと、ちょっと言葉にならない。あみ子に一切悪気がないのが分っているからこそ、こちらは良心の呵責に苦しみますけれど、だからといって受け容れるのは難しいと思います。今村さんはどうやってこんな展開を思いついたのかと絶句しました。
何の作為もなくただ素直に自分の考えを口にしたり行動したりするあみ子は、ある意味では「一途で健気」と言えるのかもしれない。でも僕は、きっとあみ子を受け容れられない。考えても考えても、その結論しか出てこなかった。こんなことは言いたくないのですが、きっとあみ子と接したらイライラしてしまいそうで。
自分が一般常識として考えている世界線から相手が外れているだけで、こんなにも受け容れられない。自分は「普通」という概念に縛られていて、その「普通」の範疇から外れた相手を知らず知らずのうちに区別してしまう人間なのかもしれない…とショックを受けたし、正直、自己嫌悪に陥りました。
『こちらあみ子』を読んでいる時、自分が一歩外からあみ子の世界を覗き込んでいるような不思議な感覚になりました。
あみ子が見ている世界はすごく純粋でした。
でも言い換えるとそれはすごく残酷で、無垢であるということは時に凶器にもなる。あみ子は、自分自身の言葉が誰かを傷つけているなんて、想像もしていないでしょうから。
あみ子という人物は、明確に異質な存在として描かれていますが、自分もあみ子のように、まったく気づかないままに誰かを傷つけていることがあるかもしれない。そう思うと、背筋が寒くなりました。
たとえば、相手への好意を込めてニックネームで呼んでいるつもりが、相手がそのニックネームを「イヤだな」と思っていたら? 僕自身の過去を思い出すと、武者修行時代の自分には、あみ子に通じるものがあったかもしれない。
今は何をするにも人間関係を第一に考えていますが、あの頃は仕事や会社に対して生意気な態度ばかり取って、自分の「好き」を突き詰めることしか考えていなかった。当時の自分は無知なので気付かなかった。無知は怖いです。
この作品を読み、あみ子と自分を比較してみて、世の中の仕組みを知っていくということは、本来の自分を隠して、型にはめていくことかもしれないなと思いました。そして、常識という目に見えないものに縛られるうちに、本来の自分を殺してしまうのかもしれない、とも。
あみ子は最後まで彼女だけの世界にいて、他者の思いや立場をおもんぱかることをしないし、自分が不幸だとも異質だとも思っていない。彼女を見ていると「知らないことの方が幸せ」というのもまた真実だと思いました。
でも、「異質」になって、他者を無視して自分を貫く生き方はあまりにリスキーで、僕はその覚悟がありません。
作中には、あみ子の立場を示唆する小物として、トランシーバーが登場します。
あみ子が「こちらあみ子、おーとーせよ」と呼びかけても、誰からも返事はない。まさに、一方通行なあみ子のコミュニケーションの象徴として描かれているのだと気付いた時は、しんどい気持ちになりました。
作中には、誰とも心を通わせずに生きているあみ子が、ほんの僅かですが心を通わせる人が2人います。それはあみ子が憧れているのり君ではありません。
一人目は、あみ子の兄である「田中先輩」。小学生時代はあみ子と一緒に登下校をしていますし、兄としての優しさが垣間見えるんですが、中学になってからはグレてしまい、クラスメイトたちから不良として恐れられている。結果論ですが「田中先輩の妹だから」という理由でクラスメイトたちからいじめられなくなるという意味では、あみ子は田中先輩に守られているし、物語の後半であみ子をある危機的な状況から救うのは彼の行動でした。
もう一人は、あみ子のクラスメイトの野球部男子。この子だけは、周囲から遠巻きにされているあみ子を避けずに屈託なく話しかけてきます。
あみ子はのり君のことしか考えていないので、二人の会話はまともに成立していません。
でも、物語の終盤、あみ子はこの男子に「(自分の)どこが気持ち悪かったかね」と問いかけます。それまで他者に対して一方通行なコミュニケーションしかできなかったあみ子が、唯一、他者に対して答えを求めて問いを投げかける。大好きなのり君ではなく、この野球部男子を相手に初めて人間らしい機微が芽生えたというのがしんどいし、その問いに対する彼の返事も、優しさはあっても、真正面からあみ子に答える術を持たなかったんだなと伝わるもので、読んでいてつらかったです。
「こちらあみ子」は、初めから終わりまでずっと殴られているようで、痛くて辛い作品でした。自分の中にある冷たさや偽善を、嫌というほど思い知らされる。
どうしてこんなに苦しくなるのか、それを考えていてふと気付いたことがあります。
それは、この作品が、視点をあみ子に据えた三人称、つまり「三人称単一視点」で綴られているということです。客観的な書き方をしつつも、常にあみ子視点であって、そこに著者や他の誰かから見た「いい」とか「悪い」とかいった判断はされていません。だから読む人はあみ子を自分で解釈するしかない。そして「あみ子、ないわ!」って否定的に感じると、そう思ってしまう自分の心の闇を突きつけられたようで、「こんなことを思うべきじゃない。でもそんな風に思ってしまうのは、自分が偽善者だからでは?」と、どんどん心が苦しくなっていく。
ちょっと幼い感じの文体で、広島の方言の会話がただ延々と続いていくようなシーンも多くて、なんだか読んでいるうちに、感情移入できないはずの登場人物に憑依されているような感覚になってくるのもしんどいですね。普段目を背けているものを突きつけられたような感覚になります。
これまでの「岩谷文庫」にないぐらい後ろ向きなことを書いてしまっていますね。楽しい読書ではないかもしれません。
でもこの作品は、ある意味僕たちに「勇気」をくれる。
これを読むことで気付かされる負の感情や心の闇は、日常生活では向き合うことがあまりないか、あっても無意識に目を背けてしまいがちなものです。リアルな世界では外面(そとづら)を取り繕って生きていけるからこそ、こうして読書を通じて、闇の部分も含めた自分の内面と向き合ってみることには価値があると思います。
たとえば、SNSにうんざりしている人。人間関係に疲れた人。周りを気にして、空気を読むこと、自分を取り繕うことに疲れてしまった人は、この作品を読むことで何らかの気づきを得られるのではないでしょうか。たとえ、そこで得られたものが快いものでなくても、正も負もひっくるめて、人間の感情にはこれだけの引き出しがあるのだと知ることで、より丁寧に生きていけるような気がします。
最後に、僕が読者のみなさんに、絶対にお伝えしたいことをひとつだけ。
多分、良識的な人、良心のある人ほどこの作品を読むのはつらい。そういうお話だと思います。僕は自分がそこまで良識派だとも思っていませんが、本当に自己嫌悪に苦しんで、その先に気付かされるものがありました。
読み終えて自己嫌悪に苛まれたとしても、自分を責めないでほしいです。
#気になる一文
真ん中に小さなたまごが三つ、寄り添うようにのっていた。
物語の終盤、あみ子は幻聴に苦しむようになります。幽霊のしわざだと父親に訴えても取り合ってもらえず、正気を失いかけたあみ子が、無我夢中で救いを求めたのは、不良になってしまった兄でした。すると、バイクに乗って帰ってきた兄・田中先輩が突然あみ子の部屋へ押し入ってきて窓を開き、ベランダに産みつけられていた鳥の巣を見つける。あみ子の幻聴は、どうやらそこから聞こえる音だったらしい。
この一文は、田中先輩が見付けた巣の描写です。
この「3」という数字は、あみ子と兄と、ある人物を象徴する数になっている。どこにもそんな説明は書かれていませんが、気付いた瞬間、僕はゾッとしました。「寄り添うように」というのが、また今村さんのエグいところで。
そして二人は次の瞬間「揃って空を見上げ」、直後に田中先輩は巣と卵を空に投げ、「ばらばらに壊して」しまう。ようやく通じ合った兄妹の心が、まるで卵が割れるように一瞬で破壊される。結局他人は他人でしかなく、家族の関係ですら簡単に壊れてしまう。あまりにも辛くて痛いけれど、どうにも心に刺さった一文でした。
先日、お世話になっている方から誕生日プレゼントで万年筆と手紙セットをいただきました!
今のデジタルで便利な時代だからこそ、手紙に想いがこもる…
最近は大事な時や、お世話になっている方へのご挨拶はお手紙を直筆で書くようにしています!
ファンの皆様もいつも愛のあるお手紙など本当にありがとうございます!
直筆の文字から気持ちが伝わりパワーをいただいています!