地方出身で、東京の大学に通っている「私」は、ある夏、鎌倉で偶然出会ったある男性に惹かれ、「先生」と呼んで親しむようになります。先生が妻と暮らしている家を、「私」はしばしば訪れるようになる。でも、先生はどんなに「私」と親しくなっても、決して本心を明らかにしてはくれません。親戚から手ひどく騙された過去から人を憎み、すべての人を疑っているとまで言う先生に、「私」は「先生の過去を知って、その人生から教訓を受けたい」と訴えかけます。(上 先生と私)
その頃、腎臓病で長く床についていた父の病状が悪化し、「私」は帰省します。大学を卒業した「私」は、母から「今後どうするつもりか」としつこくせっつかれ、先生に職を斡旋してほしいという手紙を書きますが、返事はありません。いよいよ父の臨終が迫るある日、突然先生からの厚い手紙が届きます。「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう」と書かれたその手紙は、先生からの遺書でした。私は衝き動かされるようにに東京行きの列車に飛び乗り、その中で先生からの遺書を開きます(中 両親と私)
遺書の中で先生は「私の暗い人生の影から、参考になるものを掴みなさい」と書き添えて、これまでの人生を綴り始めます。まだ10代の頃に両親を病気で失った先生は、信頼している叔父に遺産の管理を任せて東京の大学へ進学しますが、叔父に遺産を横領されてしまいます。先生は叔父と縁を切り、手元に残された財産をまとめて、東京で学生生活を続ける決心をします。
先生が新しく下宿先に定めたのは、軍人遺族の奥さんとお嬢さんが暮らす家でした。私はお嬢さんに心惹かれ、次第に親しくなっていきます。その頃、先生には同じ大学に通うKという親友がいました。Kは先生も認める優秀な頭脳と思想の持ち主でしたが、実家から勘当され心身ともに憔悴していました。先生はKを気遣って、自分の下宿にKを呼び寄せ、奥さんとお嬢さんにもKを受け容れてもらえるよう取り計らいます。
しかし、やがて先生にとって思いがけない出来事が起こります。Kがお嬢さんに恋をしたのです。先生は、Kに自分の恋心を隠しながら、お嬢さんと結婚させてもらえるよう、奥さんにこっそり直訴します。そして、先生とお嬢さんの婚約を知ったKは、ある夜自殺してしまうのです。罪悪感に駆られながらもお嬢さんと結婚して生きてきた先生は、遺書の中で、なぜ自分が死ななければならなかったのかを、「私」に向けて切々と書き綴るのでした──。(下 先生と遺書)
親友と同じ人を好きになってしまうなんて、ちょっと少女漫画みたいな話ですよね。
物語の主要な登場人物は、「私」「先生」「K」の三人です。
僕が読んだ印象では、先生は、ミステリアスな雰囲気をまとっていて、思わせぶりなことばかり言っているこじらせおじさん、という感じ。こっちが一番聞きたいところを言わずにはぐらかしてばかりなので、実際にこういう人と知り合ったら、僕も気になってしまうだろうなと思いました。若い頃は、明治時代の大学生ならではの「真面目であらねばならない、立派でならねばならない」という固定観念で自分を縛っていて、プライドは高いのに劣等感も大きくて、何だか生きづらそう。
Kは、先生も認めるぐらい優秀な頭脳の持ち主。ものすごく潔癖な人でもあって、その潔癖さが、最終的に彼を自殺へ追い込んでしまったのではと感じました。
そして「私」。
遺書の中での先生と同じ大学生ですが、僕は彼を「近代的な考えを持つこれからの若者」の象徴だととらえました。先生の重い人生のすべてを綴った遺書を託され、そこからどんな教訓を得て、どのように生きていくのか? 物語では彼のその先は綴られていないのですが、だからこそ「私」は、『こころ』以降に続く時代の、僕たち読者自身のことでもあると思います。
物語は上中下の三部構成になっていますが、夏目漱石は明らかに「下」の遺書のためにこのお話を書いていて、上と中は、遺書へ向かうための助走と言っていい。「この遺書を読んだ君たちは、これからどうやって生きていこうと思いましたか」と、次世代を生きる若者たちへの問題提起になっていて、先生の遺書であると同時に、漱石からの「時代を超えたメッセージ」なのではないかと感じています。