俺の名前は、白川温人、26歳。
「温かい人」と書いて、「はると」と読ませる。
親は、「春のごとく、心の温かい人間になりますように」と願って名付けてくれたそうだ。
それはとてもありがたいと思うし、できることならそうありたいとも思う。
とはいえ、キラキラネームなんて言葉が広まったせいで、若干そっち寄りの扱いをされることが増えて、それは少し煩(わずら)わしい。
おシャレな名前ですね、なんて言われるのも、微妙に好きじゃない。
このあたり、毎度、「おんじん」だの「おんと」だのと読み違えられ、「はるとです」と訂正するたび、「ああ……」と微妙な反応を食らい続けてきた人間にしかわからない心理なんだろうと思う。
でも、できることなら、名前については軽くスルーして貰えると助かる。
俺の職業は、一応、医者だ。
よく知られていることかどうかはわからないけれど、一般的に大学は4年制のところ、医学部は6年もある。
他の大学と違って、すべての科目が必修なので、ちょっとしくじるとすぐ留年する羽目になるから怖い。
どうにか卒業できても、国家試験に合格しないと「医師」にはなれないし、医師になれたら、その後2年間、いわゆる「研修医」として、各科をローテーションしながら、結構な薄給で働かなくてはならない。
これは意外と知られていないことらしいが、内科医になりたいから内科だけ研修する、なんてワガママは通らないのだ。
好きだろうと嫌いだろうとお構いなしに、とにかくすべての科を巡り、色んなことを中途半端に勉強する。
それが済んでから、つまり最短でも大学に入ってから8年も経って、ようやく医者としての進路を選べる立場になるというわけだ。
説明していて、我ながらスパンが長すぎてクラクラしてきた。
で、その地獄の8年をくぐり抜けて俺が選んだのは、またしても学生に逆戻りコースだった。
別に、勉強が大好きなわけじゃない。
ただ、研修医の2年間で、臨床にはつくづく向いていないと思ったので、それなら基礎分野で興味のある部署へ行こうと思ったのだ。
そこで、学生時代に講義が面白かった法医学教室に入ろうとしたら、「院生なら採用するよ」と教授に言われたので、それならば、ということになったわけだ。
大学院は4年あるので、順調にいけばその間に学位を取って、さて、そこであらためて進路を選択し直すことになる。
そのまま法医学教室に残るか、また別の道を探るか。
どっちにしても、ずいぶんと長いモラトリアムだ。
といっても、大学院生というのは、研究だけやっていればいいわけではない。
特に法医学教室では、主要業務である司法解剖にも、バッチリ参加しなくてはならない。
院生が山ほどいれば、ひとりくらい嫌がって参加しなくても許されるかもしれないが、何しろ、ここには人がいない。
教授と、俺の指導教官にあたる講師がひとり、それに臨床技師がひとりと、秘書がひとり。
それだけだ。
しかも、臨床技師には、俺はまだ会えていない。30代の男性という情報だけは得ているものの、先日から入院中で、当分復帰できそうにないらしい。
だから、俺みたいなピカピカの新人でも、今は待望の即戦力というわけだ。
初日の朝から解剖室に放り込まれ、院生になってまだ1ヶ月も経っていないのに、今朝のでなんと12体目だ。
大まかに言って、2日に1度くらいは解剖に入っていることになる。
研究のほうは、まだ初歩の初歩、色々な実験器具にようやく慣れ始めたといったところだから、たぶん、先に解剖業務のほうに慣れてしまうんだろう。
まあ、これから4年は、ここにいるのだ。
焦らずじっくりいこう……というのが、今の心境だったりする。
それはさておき。
朝イチから始まった司法解剖が終わって、今は午後2時過ぎ。
遅い昼休みだ。
秘書さんが買い物に出たので、俺はひとりでセミナー室にいる。
自分の席は日当たりが悪いから、座っているのは大テーブルの隅っこだ。
ここは秘書さんを除く4人で集まって勉強会をしたり、教室にとって大事なことを話し合ったり、休憩したりするための場所になっていて、大きな窓に面しているので、ポカポカと暖かい。
昼下がりにのんびりするには最適な空間だし、今日はもう解剖の予定は入っていないし、俺の目の前には、今朝、行きがけに買ってきたコンビニのおにぎりがある。
ちょっと贅沢して、具は鮭ハラミにイクラだ。
マグカップに、熱い緑茶も淹れた。
申し分ないくつろぎ環境なのに、俺の表情が冴えないのは……。
ガチャッ!
セミナー室の扉を開ける軽快な音に続いて、妙に間を置いて、扉が閉まる鈍い音が聞こえる。
必要以上に、扉を元気よく開けた証拠だ。
足音と共に姿を見せたのは、俺の指導教官、講師の郷間ひより女史だ。
女史といっても、確か今年で32歳、俺とは5つしか違わない。
化粧っ気は最低限だし、決してアイドル的な可愛さはないけれど、ひよりさん(本人の希望に従い、俺は彼女をそう呼んでいる)は、俺より背が高くてすらっとしていて、わりに美人だと思う。
細面で、彫刻刀で彫ったような潔い目鼻立ちをしている。
ストレートの長い髪をうなじで結んだ佇まいはとてもスッキリして、賢そうで……たぶん実際、とても賢いと思う一方、なんだか妙にふんわりしたところがある。
天然なんて安易な言葉を使いたくないので他の表現を模索すると、物凄く回転数の高いマシンから、本来必要なネジを3本くらい抜いたような、そんな感じの人だ。
「あれ? 白川君ひとり? 教授(プロフェッサー)は?」
「午後から看護学校で講義だそうで、さっきバタバタ出ていかれました」
「ありゃ、そうだっけ。大変。あ、せっちゃんには、さっき表で会ったよ。文房具を買いに行くって。クリップとか何とか」
「俺もそう聞きました」
せっちゃんというのは、秘書さんの名前だ。フルネームは古橋節子(ふるはしせつこ)という、俺より若いのにやけにクラシックな名前だが、みんな彼女をせっちゃんと呼ぶ。
俺だけは、まだ知り合って間もないので、古橋さんと礼儀正しく呼んでいる。
彼女からも、「せっちゃんでいいです」とは言われていないので、たぶん俺はずっと古橋さんと呼ぶことになるんだろう。
「はー、お腹すいたねえ、白川君。今日はいつもより早く電池切れが来ちゃって、どうしようかと思った。やっぱ、朝、全然食べないと、電池が切れるよねぇ」
呑気な口調でそんなことを言いながら、ひよりさんは提げていたビニール袋をテーブルに置いた。
中から取りだしたのは、コンビニのカレーライスの容器だった。
ご飯とルーが、上下ではなく左右に分けて配置されている奴だ。「新発売」の赤いシールが眩しい。
「電池切れって、もしかして、解剖中に突然、震え始めたアレですか? 俺、ちょっとビックリしましたよ」
そう言うと、ひよりさんはキョトンとした顔で俺を見た。
「あれ、見たことなかったっけ? 私の電池切れ」
「ないですよ。今日が初めてです。滅茶苦茶ヤバイ感じだったから、焦りましたよ」
「そんなぁ。どうってことないわよ、あんなの」
ひよりさんはあっけらかんと笑った。
しかし、俺は決して大袈裟なことを言ったわけではないのだ。
解剖の真っ最中、突然、メスを持った彼女の手が猛烈にブルブル震え始めたものだから、俺はビックリしてひよりさんの顔を見た。
解剖のときは、臨床の先生たちと同じ術衣の上から、使い捨てのサージカルガウンを着込み、それからゴム引きの裾の長いエプロンをつけるから、まあ、ある意味着ぶくれ状態だ。
それでもわかるくらい、手だけでなく、ひよりさんの全身もカタカタ小刻みに震えていた。
よく見ると、歯まで小さくカチカチと鳴っているし、目つきも酷く虚ろだ。
これで、驚くなというほうが無理だろう。
ホラー映画なら、絶対に何か悪い奴が憑いた状態だ。
でも俺はエクソシストではなく医者だから、悪魔憑きよりてんかん発作を疑い、咄嗟に「舌を嚙まないように口の中に突っ込める布」を探して視線を巡らせた。
ただ、幸い、俺が棚にあるガーゼの束に手を伸ばす前に、ひよりさんはハッと我に返った様子でメスを置き、踵(きびす)を返してしまった。
周囲には刑事たちが何人もいたのに誰も気にする様子がなかったし、ほどなく元に戻ったので、俺ひとりが騒ぐのも気が引けて、そのまま何となくツッコミ損ねていたのだ。
「あん時、てけてけ書記席のほうへ行って、何してたんです? その後、わりとすぐ元に戻りましたよね?」
今さらながら訊ねてみると、ひよりさんはガサガサと白衣のポケットを探った。
取り出したのは、個包装の小さな飴だ。
「飴?」
キョトンとする俺に、ひよりさんは、へへー、と照れ笑いした。
「そ、飴。書記席に置いといて、必要なときに口に放り込んでもらうの。そうしたら、すぐ治るから」
「飴で治るってことは……もしかして『電池切れ』って、低血糖?」
「あたり。どうも私、燃費が悪いみたいでさ。寝坊して朝ご飯食べてないと、お昼まで血糖値が保たないのよね」
「燃費悪ッ! ってか、普通に危ないですよね、あの震えっぷり」
「もうヤバイヤバイ。倒れるかと思った」
「じゃ、なくて。他の人が近くで作業してたら、切りつけられちゃうじゃないですか」
「そのときは、素早く逃げてよ」
まったく危機感のないのんびりした口調でそう言いながら、ひよりさんは何故か冷たいままのカレーの包装をバリバリと破いてしまった。
何をするつもりかと見ていると、共用の小さな冷蔵庫を開け、中からスライスチーズを取り出してご飯の上に載せ、それから容器を電子レンジに入れる。
こういうところは、実験室で見せる手技に通じる丁寧さだ。
「カレーは好きなんだけど、からいのは苦手なんだよね」
そう説明しながら、ひよりさんは両手を腰に当て、我が子の授業参観でもしているような真剣な面持ちで、レンジの中を覗き込んだ。
そして、そのままの体勢で俺に話しかける。
「こういうのさあ。何ワットで何分温めろって、書いてあるでしょ?」
「はあ」
「だけど、そのとおりの秒数じゃ、絶対真ん中が冷たいよね」
「まあ、確かに多少は」
「だから私いつも、表示の倍、レンジにかけてるんだー」
「倍は、いくら何でも長すぎやしませんか?」
「だって、どうせならあっつあつで食べたいもん」
「わかりますけど、端っこカピカピになりません?」
「なるなる。お煎餅みたいになる」
「俺はそっちのほうが嫌だなあ」
そんなくだらない話をしているうちに、加熱終了を知らせる軽やかな電子音がする。
いそいそと両手でカレーの容器を取り出したひよりさんは、俺の向かいに座り、容器の蓋を取った。
案の定、加熱し過ぎたカレーのルーもライスも、端のほうがカリカリに乾いてしまっている。
お構いなしにプラスチックの白いスプーンを取り上げた彼女は、俺を見て訝しそうな顔をした。
「何? 食べないの?」
俺は仕方なく、正直に答える。
「腹は減ってるんですけど……おにぎりは失敗したなって思ってたとこです」
「失敗した?」
「手が、臭(くさ)くて」
食事中に持ち出す話題ではないからといちばん控えめな表現を選んだのに、ひよりさんは「ああ」と納得顔でうなずいた。
「そういえば、水中死体、初めてだっけ」
俺は、渋い顔でうなずいた。