編集C
この作品、ヒロインの名前が「マリア・アントーニア」となっていますが、これは、「マリー・アントワネット」のことですよね?
編集E
おそらく。「マリア・アントーニア」というのは、ドイツ語読みらしいですね。
三浦
フランスの皇太子妃になったときに、フランス語読みの「マリー・アントワネット」にした、と『ベルサイユのばら』に書いてあった気がします(笑)。
編集C
そして、男性側の主人公の「モースティアン」。これは「モーツァルト」のことですよね?
編集G
そうだね。まだ子供の頃、モーツァルトがマリー・アントワネットに求婚したことがあるというのは、歴史上のエピソードとして有名だね。ただ、それを知らない人も多いだろうし、名前の表記が「マリア・アントーニア」と「モースティアン」では、さらにわかりづらくなっている。
編集C
この作品はマリー・アントワネットとモーツァルトの物語である、ということであれば、それを読者にちゃんと伝えるべきですよね。たとえば、「フランスに嫁いだ後、彼女はマリー・アントワネットと呼ばれるようになった」、みたいな一文でもあれば、もっとわかりやすかったのですが。
編集D
固有名詞の表記に関しては、他にもいろいろ疑問を感じます。「ハブシュブルグ家」とあるけど、通常これは、「ハプスブルグ家」ですよね。「シェーンブリン」も、普通は「シェーンブルン」と表記するはず。「フランス」のことも「フランセーヌ」と書いている。もしかしてこれらもまた、「○○語読みをしたら、こちらの表記の方が正しい」ということ? それとも、「歴史上の人物を使って架空の話を書いたので、固有名詞もちょっと架空な感じに、一部分変えてみました」ということなのでしょうか?
編集C
正確を期すためだったとは、ちょっと考えにくい気がします。マリア・アントーニアのことを「第十五皇女」と書いてありますが、正しくは「第十一皇女」。マリア・テレジアの「第十五子」ではあるので、混同したのでしょうね。また、「フラスコ画」とありますが、これもおそらく「フレスコ画」の間違いでしょう。それに、もし本当に「○○語読みだと、こうなる」ということなら、それはきちんと読者に伝えなければいけないと思う。
三浦
作中に登場するモーツァルトの『葬送曲』、つまりレクイエムは、確か未完でしたよね。でもこの作品では、ラストで、「最後の一音を弾き終えて、それを楽譜に記した」とある。ここもちょっと、引っかかりますね。あと、マリアが最後に、「いつか別の世で、また」とモースティアンへの手紙に記していますが、当時の宗教観を考えると、こういう輪廻の概念は西洋にはないのではと思います。
編集E
作者がどこまで史実に通じているのか、ちょっと疑問を感じますね。
編集D
なんにせよこの作品、もっとストレートに、「アントワネットとモーツァルトの話」として書けばよかったのにね。明らかに歴史上の人物を使って物語を書いているのに、固有名詞をほんのちょっといじって変えているのは、どうしてなんだろう?
編集E
もしかすると、「歴史上の有名人物を使って二次創作をすることへのためらい」みたいなものがあるのかなと思います。だとしたら、基本的には問題ないので、もっと堂々と書いてほしい。ただ、「歴史小説を書く」ことと、「歴史上の人物を使ってフィクションを書く」ことは違います。この作品は、作者がどういうスタンスで書いているのかよくわからなくて、読んでいて話に入り込みにくかった。
編集C
あと、歴史上の人物を小説で描く場合、まずはいろいろ調べて、正確な知識を十分に得ることが必要です。史実を自分なりにアレンジして創作するのは、その後です。
編集H
史実関連以外でも、引っかかるところはいろいろありました。例えば、モースティアンが美しい演奏を披露した後、モースティアンは「マリアがしきりに手紙を送ってくるようになった」と言い、マリアは「あの男は/しきりに手紙をよこすようになった」と言っている。真相はどっちなのでしょう? プロポーズをしたときも、モースティアンの中ではマリアが「ええ、いいわよ」と言ったことになっているのに、マリアの方は「絶対に嫌よ」と思っていたことになっている。事実関係が矛盾しているように思います。でも、こういう「真実は藪の中」形式の話を作ったという点においては、私は高く評価したいと思っています。二人の主役に交互に語らせて話を進め、でも両方とも主観だから、真実は分からない。読み手に真相を推測させようとしているわけで、その企みは面白いなと感じました。
三浦
ただ、メインとなる登場人物が二人しか出てこなくて、その二人が一人称で交互に語るという体裁は、かなり難しいやり方だと思います。しかも三十枚の短編の中で、語り手がめまぐるしいほど頻繁に交代しますよね。
編集E
読者がその人物の気持ちに入り込む前に、話し手が代わってしまうことの繰り返し。だからどうにも、感情移入できない。
編集G
二人の気持ちが交わっているなら、まだいいんだけど、単に、「次は僕」「次は私」みたいに、交代でひたすら自分の勝手な思いを語っている。これでは、シャドー・ボクシングみたい。
三浦
それはうまいたとえですね。そうなんです。この二人は、気持ちのやりとりをしていない。互いにボールを打ち合うのではなく、それぞれ一人で壁打ちをしている感じです。
編集G
一人称のわりに、気持ちの変化とかもさっぱりわからなかった。マリアはモースティアンをいいように弄んでいるように見えたのに、なぜか最後には、「実は好きだった」「三十年経っても忘れていない」「あの世で会いましょう」、みたいなことになっている。いつの間にこんな大恋愛になっていたの?
編集I
全体的に、すごく芝居がかってますよね。でも、この大仰な感じは、私はすごくいいと思ったのですが。
編集E
それに、二人の気持ちが盛り上がっているのは、それなりに描けていると思います。特に、町の舞踏場から二人で逃げ出すシーンとか。
編集I
追われて走りながら、「皇女」ではなく、素の顔で笑っているマリアは、すごく楽しそうだよね。
三浦
追っ手を撒いた後、「それからはむなしく二人で、噴水の盛り上がってはなだれる水の様を見ていた。」という辺りも、とてもよかったと思います。夢中で逃げ回っている間はすごく楽しかったのに、興奮が収まるとふっと虚脱して、二人して黙り込む。静けさの中、噴水の水音だけが響いている。すごく抒情的なシーンになっています。
編集E
余韻がありますよね。
三浦
二人のお互いへの気持ちや認識には、確かに最初は齟齬があったのでしょう。それでも知り合うにつれて、だんだん気持ちは近づいていった。けれど、歴史の流れの中、彼らの恋が実ることはなく――というような話を、作者は描きたかったのだろうと思います。ただ、二人のこの語り口は、やはりちょっと近視眼的すぎるように感じられる。相手の気持ちを考えるとか、受け止めるといったところが、まるでないですよね。自分のことしか見えていない。作者に「すごく書きたいものがある」ことは、作品全体から強く伝わってきます。ただ、それを読者に伝えるためにどう描くべきかを考えるという視点や意識が、まだあまりないように感じられる。それは、作者自身もまた近視眼的になっている、ということのように思えます。大仰な語り口は、この作品の内容には合っているとも言えるので、悪くはない。悪くはないんだけど、もう少し客観性が欲しい。登場人物たちは、気持ちが盛り上がるがゆえに視野が狭まることがあっても仕方ないのですが、作者は一歩引いた地点から、冷静に物語を制御しなければいけません。小説を書く上で、「客観性」は非常に重要です。書き手は、物語だけでなく、その物語を書いている自分自身のことも、客観的な視点で見られるようになってほしい。
編集I
作者が、ものすごい情熱を込めてこの話を書いたことは、作品から伝わってきますよね。それはとてもいいと思った。ただ、真に読者の胸を打つ作品にするためには、表現の仕方にもう少し工夫が必要ですね。
三浦
はい。情熱があることは、何より重要です。この作者のテンションの高さは、素晴らしい持ち味だと思うし、そこは失ってほしくない。でも、作品との間に適度な距離感を持つことも、物語を書く上ですごく大切なことです。
編集E
情熱はとても大事。けれど、情熱だけでも伝わらない、ということですよね。もしかして作者は、今回の作品のような、歴史的な作品舞台がすごく好きなのかなと思います。だからこそ、思わず情熱がほとばしってしまったようにも感じられる。ただ、有名人物を使って話を作るのは、その段階で既に底上げされているともいえる。自分独自の、オリジナルな設定、オリジナルなキャラクターで話を作ることにも、挑戦してほしい気がします。
三浦
あと、文章に関してですが、地の文で「ごほっ、ごほっ。」などと表記するのは、避けたほうがいい。あまりにも洗練されてないです。
編集D
ラストの「ターン」というのも、最初「何だろう?」と思った。ピアノの音だったんですね。ちょっとわかりにくい。
三浦
【】内が「モースティアン」の語りで、〈〉内がマリアの語りだという、こういう、記号に頼る書き方もやめたほうがいい。小説らしさがないですよね。そもそも、二人の主役が交互に語るという形式自体、やはり再考したほうがいいと思います。それから、誤字脱字にも、もう少し気をつけてほしい。マリアの死の間際、せっかくドラマが盛り上がっている場面で、「葬送曲」を「葬送協」と書かれていると、読み手の気持ちが醒めてしまいます。
編集C
ノンブルの付け方にも、ミスがありました。
編集D
推敲や読み直しをしていないのかなと思えますね。
三浦
情熱があるわりに、なぜか自作への思い入れが低いようにも感じられます。本当に大事な原稿なら、丁寧に推敲して、見直して、ちゃんと美しく整えてから人前に出すのではないでしょうか。自分の作品を、もっと愛して、大切に扱ってほしいですね。