編集A
これは、「嫌な主人公」の話ですね。作者は明確に仕掛けているのだろうと思うのですが。
小説を書いて応募したい方・入選した作品を読みたい方はこちら
第184回
現代狼少女譚
山野ねこ
30点
これは、「嫌な主人公」の話ですね。作者は明確に仕掛けているのだろうと思うのですが。
そうでしょうね。これは意図的なものだろうと思います。
主人公は、ずいぶんひどいことを、言ったりやったりしているんだけど、それらを本気で「ただの冗談なのに」と思っている。反省しようなんて気はまったくない。むしろ、「どうしてみんなには、この面白さがわからないんだろう」と不思議がっている感じ。この、一種異常とも言える感覚を、読者にわかるように描けている点はいいなと思います。
周囲が諭したり諫めたりしても、まったく会話が噛み合わない。普通の人にとっては「当たり前」である感覚や常識が一切通じないというのは、なんだか空恐ろしいですよね。
こんなにエキセントリックな主人公で、どんなストーリーが展開されるのかと期待したのですが……結局、大したことは起こらないまま、話が終わってしまった。これ、ラストにまったくオチがついてないよね。
そうなんです。そこは非常に気になりました。
展開にこれといった起承転結もないし、ちゃんとした結末がつけられているわけでもない。
このお話をどう読めばいいのか、わからなかったですね。書かれている内容自体はわかるんだけど、作者がどう読ませようとしているのかが、読み取れない。
そもそも作者は、この話で何を描きたかったんだろう?
そこがよくわからないんだよね。ある程度書ける人だとは思うから、逆に不思議で。
客観性は、それなりにあると思います。「嫌な人を書こう」という意図のもとに、嫌な主人公をちゃんと書けているんだから。そこは、とてもうまいわけです。でも、「嫌な主人公」を出すことによって、どういう話を書きたかったのかが、まったく見えてこない。
単に、「嫌な主人公の話を書いてみました」ということではないでしょうか。多くの作品は、読者の共感を得られそうなキャラクターを主人公にしますから、「あえて逆を狙ってみました」ということなのかも。
うーん、ちょっとした意外性はあるにしても、単に「主人公を嫌な人間にした」だけでは、面白い話にはならないよね。やはり、「そういう設定にした上で何を描きたいのか」が重要になるんだけど……もしかして、この話にはオチがついていないということに、作者は気づいていないのかな?
その可能性は、あるかもしれませんね。この話には、物語が通常は備えているはずの、「型」らしきものがないように思えますから。「オチをつける」というのは、べつに、「明確な結論を示す」というようなことではありません。生身の人間の人生に「明確な結論」がないのと同様、創作物の中で生きている登場人物の人生にも、結論なんてないでしょう。でも、小説や映画が永遠に完結しなかったら、読者や観客は困ってしまいます。「物語」の機能は、本来なら結論のない登場人物の人生に、とりあえずの着地点をつくりだすこと、と言えるかもしれません。ストーリーが展開し、一応の着地を見せる。着地の時点で、余韻だったり、登場人物への共感だったり反感だったりを受け手の心に生じさせるように、ある程度意図するというか、戦略を練ったほうがいいと思います。
現状では、「変な人」をただ主人公に据えているだけで、ストーリーもあまりないですからね。
「型」というのは、物語を構築するうえでの文法のようなものです。それを書き手と読み手が共有しているからこそ、誰かの書いた物語が、他の誰かにも読み解けるわけで。
書き手にとっても読み手にとっても違和感のない、「物語の自然な流れ」のようなものですよね。
はい。物語の基本パターンというのは、元々、ある程度決まっているものなんだそうです。誤解のないように言っておきますが、これは決して、「お決まりの展開にしろ」というようなことではありません。それ以前の、物語全般の土台となるものについての話です。ジャンルも関係ありません。コメディとかホラーとかというのは、表面の味付けの部分であって、もっと根幹の部分を見ると、物語の構造には、ある一定のセオリーが存在するんです。人間が「物語」として感受できるパターンには限りがある、ということです。
作曲における、コード(和音)進行のようなものとでも言えばいいでしょうか。人間が聞いて、「自然だ」「気持ちいい」と感じられるコード進行のパターンは、ある程度決まっている。でも、コードにさえ合わせれば、メロディーは自由自在に作れます。全く同じコード進行で、短調の曲も長調の曲も作れるんです。
まさにそういうことです。いろんな創作物を分析してみれば、「あ、この恋愛映画と、あのアクション映画は、同じ『型』で作られているな」、みたいに気づくことが、きっとあると思います。物語論や構造分析の本もいろいろ出ているので、ちょっと研究してみるといいかもしれませんね。
そういう、「創作物の型」が、この作品には見られない。最後まで読んでも、腑に落ちる感じがしないというか、小説を読んだ気がしないです。
改めて説明するとなんだかややこしいですが、「小説の型」って、割と無意識的に、みんなが使っているようなものだと思うのですが。
はい。「描きたいこと」を伝えるための構成を練っているうちに、自然と「型」に沿う展開になっていくケースがほとんどではないかと思います。
ひょっとして、作者はわざと、「小説の型」から外れたものを書こうとしたのかな?
でもそれでは、そもそも「小説」にならないよね。
基本的な「型」をちゃんと踏まえた上で、そこから戦略的に外すということならいいんです。むしろ、新しい物語を書こうとするなら、「どうやって型を外すか」が、書き手の腕と工夫の見せどころになってくる。でも、ある程度「型」を踏まえているからこそ、「型破り」が成立するわけで、最初から「型がない」あるいは「型の存在にピンときていない」のでは、物語そのものが読者に伝わらなくなってしまいます。
読者だって、ある程度「型」に沿って小説を読んでいるわけですからね。その共通認識から外れた物語になってしまうと、読み手はどう受け止めていいのか、わからなくなってしまう。
どんな物語も、読者に届いてこそですからね。そこは、もうちょっと意識してほしいかなと思います。
やはり物語を書くときには、「これを伝えたい」「これを描きたい」というような、話の「核」となるものをしっかり決めた上で書いてほしいですね。
はい。「ここが読ませどころです」というものを、読者にわかってもらえるように書くというのは、とても重要です。
もったいないよね。これ、いくらでも面白い話を作れる設定だと思うのに。「嘘」を本気で「冗談」だと思っている主人公なんて、いろんな活かし方ができたはずだよね。
例えば、オーソドックスに、「主人公に対立する人物を配置する」というのでもいいですよね。この作品においては、主人公が「変な人」なわけですから、正反対の、読者の感覚に沿う「普通の人」を登場させ、その人と主人公がぶつかり合うことで物語が展開していく、そういう方法があると思います。あるいは、まったく別の手法として、これを一人称で書いてもいい。主人公に肉薄して内側から描くことで、読者が「変な人」の内面を体感できるような物語にすることもできる。やり方は、いろいろあります。
『狼少年』は教訓的な話なのですから、それを逆手にとって、「大嘘をつき続けていたら、いつしか教祖に祭り上げられて、人生大成功。嘘つきは幸せになれる!」、みたいな、逆説的な話にしてもいいですよね。
コメディにも、お涙頂戴ものにもできるし。
いい話にも、とことん嫌な話にもできますよね。素材はとてもいいので、どんな方向にでも振ることができる。
自分の思いついた物語の可能性に、作者がまだ気づいていないというか、それを深めようとはしていない感じですね。
作者に「書きたい気持ち」が強くあるのは、伝わってきます。でも、「何を書きたいのか」という最も肝心な部分が、どうにも見えてこなかった。そこが残念ですね。