編集A
多くの方が高得点をつけている作品です。イチ推ししている人も、かなりの数にのぼりますね。
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第190回
ままならないきみに
苦夏まどか
38点
多くの方が高得点をつけている作品です。イチ推ししている人も、かなりの数にのぼりますね。
とてもよく書けていたと思います。特に、ラストの盛り上がりのところは圧巻でした。主人公の気持ちがどんどん高まっていくのと一緒に、バラバラだった合唱練習の歌声も次第に熱を帯び、ついには大きなうねりとなって教室中に渦巻いてく。主人公の思いと歌声とが見事にシンクロした、高揚感のあるクライマックスシーンになっていました。読んでいて、すごく気持ちを揺さぶられますよね。正直、私はラストのところで号泣しました。ストレートに感動した。すごくいい作品だなと思います。
胸にぐっと迫ってくるものがありましたね。私もラストのところでは、うるっときて、泣きそうになった。主人公と美春と根津君の気持ちが、言葉は何も交わしていないんだけど、歌声だけでしっかりと通じ合いますよね。主人公は、自分がいかに周りに流されていたかに気づき、縛られていた自分の心を、勇気を奮い起こして解き放った。この場面は、とても感動的でした。
登場人物の描き方の精度が、ものすごく高かったと思います。高校生たちが学校行事の合唱練習を、「かったるいな~」と思って真剣に取り組まないとか、自分を振り返っても、よくわかります。思春期ですから、「まじめ」とか「一生懸命」は「超恥ずかしいこと」なんですよね。一方で、ひどく内気なのになぜか合唱部に入っている、根津くんみたいな子がいるという設定にも、すごくリアリティがありました。意外な部に所属しているクラスメイトって、実際にいますよね。パッと見ではわからない内面を、誰しもが持っている。主人公だって、表面的には「熱血とかイタいよ。やるわけないじゃん」みたいな態度を取っていますが、ほんとは歌うことが大好きなんですよね。実は合唱部に入っていて、そこでは真剣に取り組んでいる。なのに同時に、「あたしは美春ちゃん側じゃない。バカまじめになってみんなから笑われるなんて、絶対嫌」、という思いからも逃れられずにいる。こういう辺りの描き方が、非常にうまいですよね。思春期の自意識のありようを、すごく鮮やかに描き出せていて、見事だなと思いました。
「明日になればこの熱は冷めてしまうし、みんなまた適当な態度で練習に臨むのだろう。」っていうのが、またリアルですよね。「よっしゃあ! 合唱コンクール、盛り上げていこうぜ!」「おう!」みたいな、ドラマっぽい展開にはならないんだ(笑)。
明日になればまた、「何を必死にがんばっちゃってんだか」、という目で美春たちを見る人が大半なわけですよね。もしかしたら主人公本人も、また大きな声では歌えない、歌いたくないなという気持ちに戻って、もやもやしながら練習に参加するのかもしれいない。でも、それでもいいのです。いまこの瞬間は、彼女は自由に解き放たれたのだから! と、読んでいて高揚しました(笑)。
主人公の思いきった行動は、ほんとにただ「一石を投じた」ってだけなんですよね。でも、「投じた」という事実が、主人公にはとても重要な意味を持つのだと思う。これからは、自分の本当の気持ちをごまかすことなく生きていこうと思っているはずだし、少なくともその方向へ、一歩踏み出せたわけですから。状況自体は大して変わっていなくても、物語としてのカタルシスがありました。自分の気持ちに蓋をしてその場の空気に合わせるとか、そもそも自分の気持ちに気づかないふりをしてうまく生きていこうとすることは、人間誰しもありますよね。集団の同調圧力に呑み込まれてしまうのは、実際よくあることだと思う。そういう誰もが共感できるテーマを、盛り上がりのある感動的な話にまとめ上げることができていて、非常に秀逸な作品だと思います。
主人公はそれまで、「自分はうまくやれてる」と思っていたんですよね。言葉にできないもやつきをずっと感じていたんだけれど、気づかないふりで押さえ込んでいた。でも、ゆずるの感情のほとばしりに触れて、自分の本当の気持ちをごまかすのはもうやめようと思った。そして、ちゃんと具体的行動を起こしている。このラストシーンは、本当によかったですよね。
主人公の弟・友樹がまた、いい味を持ったキャラクターですよね。小学生なのに、妙に気が利いていて、物事がわかっている感じ。高校生の姉より、精神的に大人に見えます。
うん、友樹の世慣れた感じは、すごくいいよね。それでいて、スレているわけでもなく、いろんな気遣いをさりげなくできている。私は、「この子いいじゃん、小学生のイケメンだ!」と思って読みました(笑)。実は主人公のほうは、あんまり「いい子」ではないんですよね。美春のことを、「バカみたい。もっとうまくやればいいのに」と思っているし、発言は時に無神経だし。でもこの弟が、「姉ちゃん、幼稚園からやり直したら?」みたいなツッコミを、タイミングよく入れてくれているおかげで、主人公の嫌なところを読者がうまく流しながら読める。その辺りの塩梅も、うまいなと思います。
高評価が多い中で、意外と点数の低い人もいるんですよね。理由を聞かせてもらえますか?
僕は、ゆずる君の作中での扱い方に、ものすごく引っかかりを感じました。ゆずるは、「ちょっと普通ではない子」のように描かれていますね。両腕を横にぴんと伸ばし、「僕の『気をつけ』はこうなの。これ以外の『気をつけ』はできないの」と譲らなかったり、少しでも嫌なことがあると、息さえ止めて固まって動かなくなったり。友樹も「ビョーキらしいぜ」と言っているし、もろもろの描写を総合して考えると、「発達障害か何かなのかな?」という推論が成り立つように思います。
こだわりが強いし、触れられるのを異常に嫌がるし、でも特定の科目だけはずば抜けて得意。ちょっと、アスペルガー症候群などを連想させます。まあ、発達障害は「病気」ではないですけどね。器質的な脳機能障害だから、治療して治るようなものでもなければ、治さなければいけないものでもない。「特性」として、うまくつきあっていくべきものらしいです。この作品では、ゆずるを「発達障害である」と明言はしていない。でも、描かれている様子から推し量ると、確かにゆずるは、単に「集団生活が苦手」という以上の、何かしら先天的な問題を抱えているように感じられるところはある。
主人公は、ゆずるの抱えている問題の詳細を、何も知らないわけですよね。障害の種類も程度も、どういう対応が適切なのかも、何も知らない。なのにラストで、「ゆずる、あんたはやっぱり、学校に行かなくちゃいけない」なんて言っている。「学校へ行くこと」が、ゆずるのような子供にとってどういう影響を及ぼすものなのか、よく知りもしないのにです。自分の気持ちの高ぶりに任せ、勝手に見当ちがいなアドバイスというか、決めつけをしているように思えて、僕はこのラストには感動できなかった。むしろ、不愉快さを感じました。
私も、まったく同意見です。
「勇気を出して、校内コンクールの合唱練習に真面目に取り組む」ことと、「障害を抱えて不登校状態になっている子供が、学校へ行く」ということは、問題の質もレベルも全く違う。なのに、「あたしも頑張ったんだから、あんたも頑張れ。学校へ行け」というのは、励ましているにしても、どうにも無神経だなという気がします。自分がちょっと思いきって大声を出せたくらいのことと、ゆずるが一生抱えていくであろう問題を、一緒くたに語ってほしくない。
なるほどね。確かに、そういう意見もわかります。
それにゆずるは、親からネグレクトされてるっぽいですよね。おそらく、学校だけでなく、家庭にも居場所がないのでしょう。こういう状態の子供が「学校に行く」のは、とてもハードルが高いことだと思う。その辺りに関しても、主人公は十分考慮できているわけではないですよね。やはり、よその家庭の事情に、安易に首を突っ込むべきではないと思います。
ゆずるはネグレクト……されてるんでしょうか? 私はあまり、そういうふうには受け取らなかったのですが。
登場したとき、「その手足はガリガリで」とありますよね。
でも、「晩ご飯は食べてきているみたい」ともありますから、食事はちゃんと与えられているんだと思います。妙なこだわりを持っている子だから、ものすごい偏食なのかもしれないし、やせっぽちでも不思議はないと思う。別のところには「クリーム色のふっくらとした頬」ともありますから、栄養失調ではないでしょう。「手足がガリガリ」というのは、単に身体的特徴を描写しているだけなのでは?
食事は与えているけど、あとはネグレクト、というケースだってあります。実際ゆずるは、夜遅い時間でも、一人で放っておかれてますよね。しょっちゅう隣の家に入り浸っていることに、モデルのような母親はおそらく気づいていないでしょう。親が子供の面倒をちゃんと見ているようには感じられない。「お父さんは見たことがない。」という箇所も、ゆずるが「普通の子ではない」せいで父親は家を出ていった、ということを匂わせているようにも読めますし。
でも、親の帰りが遅い家庭は、いくらだってありますよね。褒められたことではないですが、それこそ各家庭の事情で、どうしようもないことはある。ゆずるの母親にしたって、べつに自分だけちゃらちゃら着飾って、ゆずるには汚れたままの服を着せたりしているわけではないです。母親は「モデル」をしているのではなく、「モデルになれそうなほど背が高い」というだけのこと。会えばやさしそうな柔和な笑顔で挨拶してくれるのですから、ごく常識的な人に思えます。父親だって、単に主人公が「見たことがない」だけで、普通に同居しているのかもしれないし。
うーん、これは、読者の受け取り方によって、さまざまに解釈が分かれるところだよね。怪しいと思えばすべてが怪しいし、問題ないと思えば、全く問題ないともいえる。でも、「もしかして……虐待?」と受け取ってしまう読者がいるのであれば、もう少し誤解を生じさせないような書き方を工夫したほうがよかったかなという気はしますね。
そうですね。もし虐待とかではないのなら、例えばゆずる君の母親が、菓子折りでも持って挨拶に来るとかね。「最近、うちの子がよくお邪魔しているみたいで、すみません。ご迷惑かけてないですか?」って。そういうシーンがちょっとでもあれば、ここまで引っかかることはなかったように思えます。
ゆずる君を何か障害っぽいものがあるような設定にしたことが、よくなかったんじゃないでしょうか。そのせいで、「家族から邪険にされているのでは?」という疑念も生じるわけですし。
確かに。友樹が「ビョーキらしいぜ」と言っているところは、私もちょっと気になりました。「こういう書き方でいいのかな?」という疑問が湧いてしまって。
それもわかります。わかるんだけど、この友樹の台詞は、本当に「こいつ病気だから」と思って言ったわけではないですよね。その直前の姉の言葉、「ちょっとしたことで不登校になるなんて、ただのわがままじゃん」みたいなデリカシーのない発言に対して、「人にはいろいろ事情があるんだよ。勝手に判断して、責めたりするなよ」とたしなめているだけだと思います。だから私は、この場面は特に気にならなかった。
友樹が他者に気遣いできる人間だということはわかります。ただ、彼に「ビョーキ」という言葉を使わせたことだけは、ちょっと作者の配慮不足かなという気がしますね。どうしても、いろいろな誤解を生みやすい言葉だと思いますので。それに、こういうゆずるの存在が、物語のための「装置」になっている気がして、そこも気になりました。そもそも、「ゆずる」というキャラクターを、登場させる必要はあったのかな? 合唱練習をめぐって主人公の心が揺れ動く、という物語ではダメだったのでしょうか?
いや、私は、ゆずるはこの話に必要なキャラクターだと思います。やっぱり、障害があることを匂わせる設定が、読み手を必要以上に刺激してしまったんじゃないかな。病気とか障害とかではないんだけど、何らかの理由で学校へ行けなくなってしまった子、何かしらの生きづらさを抱えている子、として描けばよかったのではないでしょうか。
そうですね。そういう設定でも、この話は十分描けると思います。書きようは、いくらでもありますよね。
でも、「障害」という要素を、あまりにも腫れものを触るように扱うのは、逆に問題ではないでしょうか? それだと、少しでも障害を抱えているらしいキャラクターは登場させないほうがいいとか、扱いが難しいから避けてしまおう、ということになってしまいかねない。
ああ、確かにそれは、おっしゃる通りですね。むしろ、それこそが一番不誠実な姿勢と言えますね。
僕は、ゆずる君の存在は、この物語にとって、むしろプラスに機能していると思います。主人公は、ゆずるの純粋な感情の発露に、胸打たれたわけですよね。それまで「気遣う対象」であったゆずる君から、逆にとても大切なことを教えられた。それにより、勇気を出して、自分を偽るのをやめることができた。ゆずる君は、この物語において、ものすごく重要なキャラクターです。削る必要は全くないと思う。病気や障害を抱えた人は、現実に世の中にいるわけですから、物語に登場させること自体がタブーになってしまうのはよくないと思います。
それもそうだね。言われてみれば、同感です。ただまあ、ゆずるには発達障害があるのかも、というのも、あくまで我々の憶測でしかない。もしかして、作者からすると、「そんな設定にしているつもりは、まったくないです」ということかもしれないですよね。だとしたら、それによって批評もまた変わってくる。結局、作者がゆずるを、どういう設定で描いているのかはっきりわからないところが、一番の問題なのかもしれません。
病気や障害を持っている人は、いくらでもいるわけだから、避ける必要は全くないよね。堂々と描けばいい。やっぱりあとは、描き方次第なんだと思う。
とはいっても、非常にデリケートな要素なのは間違いないですから、安易に盛り込むのは、やはりよくないと思う。そして、必要性のある重要な要素である場合は、描き方に細心の注意を払うべきです。下調べをちゃんとして、読者がどう受け取るかを十分考えたうえで、配慮のある書き方をする必要がありますよね。
ラストが、「ゆずるは学校に行くべき」という終わり方になっているのは、僕はやっぱり引っかかります。「主人公が一歩成長した話」というだけでいいはずなのに、どうして最後に、ゆずるの問題まで引っ張り出すんだろう? ゆずるにしてみれば「大きなお世話」だろうという思いが、どうにもぬぐえないです。
でもまあ、ゆずるがこのままずっと引きこもって暮らすことも、決していいとは言えないしね。作者は、主人公だけではなく、ゆずるの今後についても、何らかの方向性を示したかったんじゃないかな。
これは、文字通りに「学校へ行けよ」ということが、この話の結論なのではないですよね。主人公は、「理解者はきっといるはずだから、勇気を出して広い世界に出て行こうよ」ということを言いたいのだと思います。
うん。決して上から目線で、「学校へ行けよ」と言ったんじゃないよね。
ゆずるに対して、「こうしろ!」と押しつけているわけではない。自分が勇気を出して行動したら、「やってよかった!」と心から思えたので、「この気持ちを、ゆずるにも知ってほしい」と思ったのでしょう。「広い世界に思いきって踏み出せば、君も『やってよかった』と思うことがあるはずだよ。やってみようよ」って。ただ、主人公自身がまだ高校生だから、「広い世界」といっても「学校」ぐらいしか思いつけないから、とりあえず「学校に行こうよ」という言い方になっているんだと思います。
この主人公の中から出てくる言葉としては、むしろ自然な感じがしますね。
それに、クライマックスの合唱シーンの最中でもあるので、主人公の気持ちも非常に高揚してますよね。感極まるあまり、つい「辛いとは思うけど、それでも学校行かなくちゃ……! そして、あんたを理解してくれる人に出会わなきゃ……!」って、心で呼びかけずにはいられなかった。この青臭いパッションのほとばしり方は、十代の主人公の心の動きとして、すごく納得できる。こういう青春感のある盛り上がり方も、この作品の魅力だなと思います。
そうだよね。主人公は、勇気を出して、自分の心のままに行動できるようになった。そのきっかけをくれたゆずるを、今では愛おしいとさえ思っている。だからこそ、「あんたを受け止めてくれる人は、きっともっとたくさんいる。どうか勇気を出して外に出て、そういう人たちと出会ってほしい」という思いが溢れ出たんですよね。
はい。私もそう読みました。ただ、ものすごく引っかかりを感じる読者もいるかもしれないということだけは、書く際にちょっと意識したほうがいいですね。繊細なテーマを扱うときは、特に。できるかぎり調べたり、取材したり、想像したりするのが大切、ということでしょう。
ゆずるの設定が微妙なだけに、描き方が非常に難しいところです。そこへの配慮が、まだ十分ではなかったという面はあるでしょうね。私自身は、この作品はすごくいいと思うし、大好きなのですが、思わぬところで思わぬ誤解をたくさん受けていることがわかって、少々驚きました。ほんのちょっとの書き方のせいで、感動的な話が読者に届かないのは、あまりにもったいないですよね。どうか文章のごく細かい部分にまで、十分気を配ってほしい。この作者だけでなく、投稿者全員に注意を喚起したいです。
どんなに慎重に書いても、思わぬ誤解をする読者は必ずいますからね。だからこそなおさら書き手は、慎重の上に慎重を重ねて、文章や描写を練り込む必要があると思います。
ほんのわずかな描写、ほんの一つの言葉の選択が、読者の抱くイメージを大きく左右するのだということを、しっかり認識して書かないといけないな、と自戒をこめて思いました。でもこの作者は、いろいろな人の抱えているいろいろな思いを描こうと、すごくがんばっていらっしゃると思います。同調圧力に直面したときの、クラスメイトそれぞれの心の微妙な部分を捉えて描き出そうとしているのも、とてもよかったですね。
登場人物たちが、みんな魅力的でしたね。私は特に、根津君の人物造形がすごくうまいなと感じました。「こういう子、実際にいる!」って思えた。
おどおどしてるだけかと思えば、実は思慮深く、「現状を変えたい」と真剣に考えているんだよね。痛々しいほどバカ真面目な美春は、実は自分の中のゆずれないものをちゃんと大事にしているし、生きづらい問題を抱えているゆずるの中には、純粋で美しい感性がある。そういう様々な人たちとのかかわりの中で、主人公の内面もまた変わっていく。ラストで、歌声の高まりとともに描かれた、一気に花開くような主人公の心の変化が、とても鮮やかで感動的でした。
文章に、読者の心を揺さぶる力がありますよね。読み手の心に響く、素晴らしい小説だったと思います。