編集A
決してうまい小説とは言えません。でも、私はイチ推しにしました。不思議に胸に迫ってくる作品だと思います。
小説を書いて応募したい方・入選した作品を読みたい方はこちら
第196回
夏の絶望
品神泉
32点
決してうまい小説とは言えません。でも、私はイチ推しにしました。不思議に胸に迫ってくる作品だと思います。
臨場感とか緊迫感みたいなものがありますよね。
ストーリーそのものは大したことないというか、特に大事件が起こるわけではありません。主人公は十一歳の女の子で、両親は離婚していて、母親と弟と三人暮らしをしています。ある日、かつて家族で住んでいた家を、父親が建て替えようとしていることを小耳にはさみ、なんだか気持ちがざわつく。何をどうするという目的はないんだけど、「とにかく行かなくちゃ」と感じて、自転車に乗り、かつて暮らしていた家へと向かいます。かなりの距離を、行って、帰って、それがお母さんにバレて怒られる。激しく落ち込む。言ってみれば、ただそれだけの話です。でも、主人公の気持ちの移り変わりとか、話の半分近くを占めている「自転車の旅」の描写が、私はすごくいいなと思った。書かれている細かいあれやこれやが、本当に「小学生の女の子」の目を通したものになっています。子供ならではの心の動きが、とてもよく出ていたと思う。そしてそれは、この作者が子供の内面を描くのがうまい、ということではありません。むしろ、テクニックみたいなものはほとんど感じられない。でも、だからこその、形容しがたい魅力があるように思います。もしかしたらこれは、作者の実体験が何かしら混ざっている話なのかもしれませんね。描写に実感がこもっていて、読み手の心を掴むパワーがありました。
描写には不安定なところがあるし、文のリズムが悪いなと感じられるところもいろいろ目につきます。うまい文章だとは到底言い難いんだけど、小学生目線の物語だから、その不安定さとか未完成さみたいなものが、妙に「子供のリアル」として感じられるところがあるんですよね。今回の作品においては、そういうあたりがうまく作用していたなと思います。自転車で走る道中の描写には、すごく臨場感がありましたよね。トンネルをくぐるところとか。
暗くて怖いから、「やだな、通りたくないな」って思うんですよね。でも、他に道はないから、思い切って「えいっ」って突っ切ると、意外と「あ、大丈夫だった」ってなる。そしたら今度は薄暗い林があって、また「怖いー!」ってなる。必死にペダルをこいで広いところに出て、ようやくホッとする。涼しい風と温かい陽射しを身体に受けて、今度は「わー、気持ちいいー」ってなる。怖くなったり嬉しくなったり、忙しいですよね。こういう、すべてに一喜一憂しながら全身で反応している様子が、いかにも子供らしいなと思いました。「そうそう。子供ってこうだよな」「自分も子供の頃、こんな感じだったな」と、読みながら「子供」の感覚を追体験できて、とても楽しかったです。
ただ、話の締め方はかなり引っかかりました。主人公が無理解な親に怒られて傷ついて、「消えたいな」と呟いて終わり、ではあんまりですよね。これでは鈴華がかわいそうすぎるし、唐突に話が途切れたみたいで、読者は置いてきぼりを食ってしまう。べつに、すべての問題を解決させる必要はありませんが、一応小説なのですから、もう少しまとまりのある終わり方にしてほしかったです。
小学生の目線で書かれているから、こんな終わり方も仕方ないのかなと私は思いました。何も力を持たない子供だから、辛い目に遭ったとき、ただ膝を抱えて丸くなるしかない。こういうあたりも、「子供らしさ」がよく出ていたと思います。まあ確かに、もう少し着地感が欲しい気はしますけど。
私も、きっちりしたオチまでは求めていないのですが、せめてもう少し前向きな感じにするとか、ぼかすとかね。今のままでは、あまりに救いがないですから。読み終わったとき、すごく悲しい気持ちになってしまいました。
そうですね。けれど、本作のタイトルは『夏の絶望』です。私は最初、このタイトルだけを目にしたとき、「『絶望』って、そんな大げさな」と思いました。「ほう、どれほど深い絶望が描かれているのかな」と、やや意地の悪い気持ちで。でも、最後まで読んでみて、これは本当に「絶望」としか言い表しようのないものであるということが、とても胸に迫って感じられました。主人公には、お母さんに反抗する気も、お父さんにすり寄る気持ちも全くなかったのに、「おまえが悪い」と決めつけられて、一方的に怒られる。自分の気持ちを分かってくれる人は誰もいない。逃げ場もない。何の力もないから、現状をどうすることもできない。まだ十一歳の子供にとって、この状況はほんとに「絶望」としか言いようがないですよね。だから私は、読後感の善し悪しとか小説としてのまとまりなどという次元を超えて、この救いのないラストは、現状のままでいいと思う。作者は見事に、主人公の気持ちを、ご自身がお書きになりたかったことを、この作品で描ききっておられると思います。
救いがないほうが、現実的なわけですよね。悪いことをしたわけでもない子供が、大人の無理解に泣くということは、普通によくあることだと思います。もちろん、親には親の言い分があるでしょうけど、互いの気持ちがうまく通じ合わなかったときは、どうしたって子供のほうが割を食うというか、引き下がるしかない。「小説としては、もう少し救いがほしい」という意見もわかるのですが、こういうタイトルをつけているということは、作者はこの作品で、「救われない子供の気持ち」をこそ書きたかったのかなと思います。
はい。私も、まさにそこが、作者の一番書きたかったことなのだろうと思います。小学生の主人公が、一生懸命頑張って、心も体もフル回転で、夏の一日を文字どおり駆け抜けるんだけど、その結果、彼女が最後に抱く気持ちが「消えたいな」なのです。確かに読後感はよくないかもしれない。でも、主人公の切実な思いを受け止め、感じたり考えたりしないのならば、小説という表現を味わう醍醐味がいったいどこにあるでしょうか。
終わり方自体はこれでもいいと思うのですが、ちょっと急ブレーキすぎるかなという気はします。それまで、どんどん移り変わる主人公の気持ちや感覚を、丁寧にかつスピード感を持って描写していたのに、それが突然ブツっと途切れてしまった感じですよね。「物語の終わり」を味わえない話の締め方になっている。べつに、ラストに救いが欲しいわけではないのですが、この「放り投げ感」はもう少し改善してほしい。
うーん、私はブツッと切れるからこそ、むしろ余韻が感じられると思いましたが、そこは読者それぞれによって感じ方が異なるところでしょうね。文章や書き方は、まだこなれていないですね。とはいえ、それが作品に異様な緊迫感をもたらしているとも言えるんですけど。
例えば、十枚目から十二枚目。ここは、丸々三枚分の文章の末尾のほとんどに、「~した」「~だった」というような、過去形が使われています。「~する」とかの現在形が、ほんとに一ヶ所もない。文章をぶっきらぼうにブツッ、ブツッとただ書き連ねているみたいで、なんだか拙く感じられてしまいます。
小学生が書く、「夏の日記」っぽいですよね。「○○へ行った。××で遊んだ。楽しかった」みたいな。
私がすごく引っかかったのは、十九枚目です。「心が絶望でいっぱいになった」とありますが、こういう書き方はよくない。「夏の絶望」というタイトルなのですから、むしろ本文中で「絶望」という言葉は一度も使わないほうがいい。何が主人公にとっての「絶望」なのか、「絶望」以外の言葉で丁寧に読者に伝えていく。その積み重ねによって、小説はできあがっていくものではないかと思います。ここは、別の言い回しにすべきですね。
描写に関しても、気になるところが多かったです。心情描写はすごくいいと思うのですが、風景描写があまりうまくいってない。というか、まだ「描写」というものを、あまりわかっていないのかなという印象です。例えば、「そこに煎餅があった。クッキーもあった」と書いても、これは単なる事実の羅列であって、描写ではありません。「描写」をするのなら、「その煎餅は、濡れた赤土じみた色をしていた」みたいに、「どんな煎餅なのか」を描かなければいけないんです。そこにさらに、「今の自分の気持ちと同じように」なんて、心情を重ねるのも手ですね。だから、主人公が自転車で走っている場面で、「林があった」「暗いトンネルがあった」と書いてあっても、これはまだ描写とは言えない。
主人公のフィルターを通すことが重要なんですよね。
はい。「視点人物がその風景をどう感じたのか」をさりげなく書く。どんな匂いがして、どんな温度で、どんな光の加減で……ということを描くのが風景描写ではないかと思います。「暗いトンネルがあった」なら、そのトンネルの向こうから、どんな匂いの風が吹いてきたのか。トンネルの中は背筋がひやりとする涼しさだったのか、それとも息苦しいような蒸し暑さだったのか。そういうことを描くと、もっとよくなると思います。
そういう風景描写を通じて、主人公の気持ちや感覚が読者に伝わってくるわけですからね。
十一枚目に、「壁にはカラフルなスプレーで意味のわからない英語の落書きがしてあった。うまいものだなあと思いつつも、暗くて怖くて、鈴華はそこを通りたくなかった」とありますね。ここはちゃんと描写になっていると思います。でも、その後の林の場面の、「なんだか不気味で異様な雰囲気があり」というのは、描写としては浅い。どんなふうに異様なのか、どんな不気味さを感じたのかということを書かないと、本当の意味で「薄暗い林に囲まれた神社」を描写したことにはならないです。でも、全てをそんな調子で描写していったら、風景描写と心情描写ばかりになってしまいますから、取捨選択は必要です。どこを詳しく描いて、どこをさらっと流すのか、バランスが大事ですね。そういう意味では、トンネルを抜ける場面は、ちょっと丁寧に書きすぎていると思います。だって結局、何も起こらなかったわけですよね。
そうですね。「トンネルがあった。怖くて通りたくなかった。でも通った。何も起こらなかった」。考えてみれば、「なんでもなかった」ことを、なぜか詳細に説明していますね。
何か起きるのかと思って読んでいた読者にしてみたら、「何も起きなかった」と言われては拍子抜けです。この小説は特に、自転車で疾走する感じがキモでもありますから、「何も起きなかった」ことについては、そんなに多くを語らなくてもいいんじゃないかと思います。「怖いものが見えないように、全速力で突っ切った」とでも書いておけば、一行で済みます。
また逆に、説明が足りないところも目につきました。例えば十枚目に、「厳しい地形を抜けた所で」とありますが、この「厳しい地形」って、具体的にどんな地形だったのでしょう? あまり風景が浮かびません。
そもそもこの話、誰の視点で描かれているのか、よく分からなかったです。一応、「限りなく鈴華視点に近い三人称」なんだろうなと思いながら読んだのですが、小学生目線とは思えない表現が地の文にとても多くて、引っかかりました。それこそ、「厳しい地形」という言葉も、子供の語りにはそぐわないですよね。トンネルの落書きを見たときの、「うまいものだなあ」という感想も、なんだかおじさんっぽくて、小学生らしくない(笑)。「その精神的重圧が」とか「自らを過信していたのだ」なんて、とても十一歳の女の子の語り口とは思えないです。そういう箇所が全編にわたってたくさんありました。
鈴華視点ではない箇所も多いですよね。例えば一枚目の、「小学生ながら何かを感じ取り」というところは、いきなり神の視点になっています。視点がブレているというよりは、もともと統一されていないように見える。
そういった視点のぐらつきが、どうにも居心地悪い感じで、私はこの物語に入り込めませんでした。この話の主人公は子供ですが、作者は、子供視点の可愛い話を書きたかったわけではないですよね。それこそ「絶望」を描こうとしているのですから、テーマはむしろ重く暗い。だから文章も重々しくなっているのかなとも思うのですが、さりとて、この語り口が適切であるようにも感じられない。もう少し違う書き方があったのではないかと思えて、引っかかります。
確かにそれは、おっしゃる通りですね。おそらく作者は、まだ小説を書き慣れていらっしゃらないのだろうと思います。だから、「視点をどうするか」なんてことを、あまり考えずに書き始めてしまったんじゃないかな。この話なら、視点はもうぴったりと、鈴華に寄り添ったほうがいいと思います。鈴華の背後霊的存在になるというか、鈴華の目から見た景色しか書かない、という書き方に徹底する。
あるいはもう一つ、鈴華の一人称にするというやり方もあるにはありますが、語り手が十一歳では、語彙力の問題がある。使える言葉に限りがありますよね。だから、あまりお勧めしません。というか、そこを考えると、「子供が主人公」の小説というのは、本当に難しいなと感じます。言葉をまだうまく操れない人物を主人公にするということが、小説という媒体に本当に適しているのかという根源的な疑問に、改めて気づかされましたね。
自分をうまく語る言葉を持たないのですから、子供って辛いですよね。そのうえ、力もないし、自由もないし、コミュニケーション能力も低いし。
主人公は、自分の立ち位置がわからなくて、不安に揺れているんじゃないかな。僕は、その気持ちはすごくわかるなと思いながら読みました。このお母さんは、なんだか毒親っぽい感じですよね。母子家庭の中でお母さんとうまくいっていない主人公にとって、「かつて家族で暮らしていた家が取り壊される」というのは、足元が崩れるような出来事だったのではないでしょうか。だから、何かを確かめるように、そこへ向かわずにはいられなかった。たどり着いた先で、道路の溝に落ちている古い表札を見つけるというのは、すごく象徴的なエピソードになっていて、よかったと思います。「消えたいな」という絶望のラストも、僕は納得できました。
わかります。お母さんは、主人公への当たりがかなり厳しいですよね。支配的で感情的です。主人公は、自分の気持ちを言うことも、お父さんのことを知ろうとすることさえも許されない。こういう状況でずっと暮らさなければいけないというのは、すごくつらいですよね。特に六枚目の、「父の顔が写った写真は、母と一緒に黒いペンで塗りつぶした」というエピソードには、ちょっと怒りすら覚えました。これって、「父親の顔を塗りつぶせ」とお母さんに言われ、鈴華は反論もできず従ったわけですよね。お母さんが別れた夫を憎むのは自由だし、お母さんにはお母さんの言い分があるんだろうけど、娘にこんなことを強要するのはひどいなと。こういう残酷さ、現実にもありそうなことだと思いました。
なのにラストの場面では、「一人であんな所まで行くなんて危ないでしょ!」と、心配しているかのようなおためごかしを言ってますね。
え? いやいや、ここに関しては、本当に心配して言っているんだと思いますよ。このお母さんは、べつに娘のことが嫌いではないんです。まあ、弟のほうをより好きなのかもしれないけど、娘のこともちゃんと本気で心配している。そして、だからこそ本作はやるせないんです。
意外と普通のお母さんでもあるんですよね。食事もきちんと作ってるし、「子供たちをちゃんと育てなきゃ」という思いが強くあるのは伝わってくる。でも、子供の気持ちは全然わかっていない。分かろうとする気もないみたい。
大人であるお母さんは子供のことをわかろうとしていないのに、子供である主人公のほうは、「弟は頭よくないし、自分がしっかりしなきゃ」とか気を回して頑張ったりしていて、なんだか切ないですよね。
鈴華はお母さんにすごく気を遣ってますよね。顔色を窺って、怒らせないように先回りして。鈴華はお母さんを嫌っているわけではないと思います。そしてお母さんのほうも、ヒステリー気味ではあるけど、実は必死に子育てをしているんですよね。ただ、お互いの気持ちは悲しいほどすれ違っている。
この、親子が噛み合わない感じ、すごくよくわかります。お母さんはお母さんで頑張ってるんだけど、子供から見るとどうしようもなくピントがずれている。そして、子供の側の頑張りは、なぜかいつもうまく親に伝わらない。鈴華側から見れば、現在の状況は、好きな相手から否定され続けているようなものですよね。
やっぱりそれは、すごくつらいことですよね。
妙に身につまされるものがありました。
この作者は、強く訴えたい何かを持っているように感じられますよね。ただ、まだちょっと小説としての技量が足らない。描きたいことをもう少しスマートに表現できるよう、文章や描写をもっと洗練させるべきかなと思います。
ただ、小説として洗練され過ぎてしまうと、この作品の味が消えてしまう気もしますね。
同感です。この作品の持っている独特の味わいは、書き手に作為がないからこそですよね。こういうのは、書こうと思って書けるものではない。わざとは書けないです。もちろん上達はしてほしいのですが、この味わいは失ってほしくないと思います。
でも、やっぱり小説には、ある程度の作為は必要なんじゃないでしょうか?
書き手の感性だけで書かれている作品だからこそ、読み手によって、合う合わないがはっきり分かれてしまいますね。
そうですね。「小説として洗練させる」ということは、「読者の間口を広げる」ということだと思います。ただ、それが常にいいことかどうかは、何とも言えない部分がある。私はこの作品は、「うまくはないかもしれないけど、いい小説だな」と思いました。そして同時に、この作品は、「ここを直したらもっと良くなる」とか「ここに手を加えたら評価が上がる」というものではないように思います。受賞には届きませんでしたが、直す必要もまたないでしょう。作者が書きたいことはちゃんと表現されていますから、これはこれでいいんじゃないかと思います。万人受けするように書き直したりすると、せっかくの味わいが薄まってしまいますよね。だから、この作品はこのままにしておいて、別の話をどんどん書いてほしいです。まずは書き慣れていってほしい。すごくいいものを持っていらっしゃる方だと思いますので。母親や弟の描き方なんて、とてもうまかったですよね。少ししか登場しないのに、どういう人物であるかということが、実感を伴って伝わってきました。
盛り込まれている大小のエピソードも、とても印象的でよかったです。書きたいものがある方のように見受けられますので、思いの丈が詰まった作品を、ぜひまた送ってきていただきたいですね。