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なんといっても、食べ物の描写が抜群に上手かったです。本当においしそうだった。何はさておき、まずはそこを高評価しておきたい。
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第205回
『小籠包のひととき』
松葉萌
なんといっても、食べ物の描写が抜群に上手かったです。本当においしそうだった。何はさておき、まずはそこを高評価しておきたい。
わかります。私も実際、本作を読んだ後に小籠包を食べにいきましたもん。これってすごいことですよね。文章だけで読者に、「これ食べたい!」って思わせるなんて。
ラストでは一変して、主人公が冷めきったまずい小籠包を食べています。ここは本当にまずそうだった。つまりは、描写力が高いということですね。
構成もいいと思う。作中の「現在」において、主人公はずっと中華料理屋さんのなかから動きません。お店で別れ話をしている場面から始まって、終盤もその場面に戻ってくる。途中に過去の出来事を挟んで、その話の流れの中に「小籠包」というアイテムを上手に絡めています。今別れようとしている彼との間に、どんな経緯があったか、というのも全部わかるし、その上で現在の時点のドラマを進めてもいる。とてもうまいなと思います。
確かにこの構成は、かなりよくできていたと思います。まあ、よくあるパターンの一つではあるんですが、現在→小過去→大過去→現在、という流れは、ちょっと面白いですよね。
この構成、プランとして思いついても、実際書き始めたらけっこう難しいと思います。
はい。普通、別れ話から物語を始めて、いったん過去に戻るとしたら、「そもそも彼との馴れ初めはこうで~」って感じに書きがちですよね。二人の出会いの場面まで一気に時間を巻き戻し、そこから順に過去の出来事をたどって冒頭シーンにたどりつく、という書き方にする人が多いと思います。
過去のある時点に戻った後で、さらにそれより過去に戻るんだけど、読んでいてまったく混乱しない。
そして、「小籠包」という要素が、現在にも過去にも、さらに物語のテーマにも密接に絡んでいますよね。要素の扱い方が非常に秀逸だなと思いました。
「小籠包」を使って状況を対比させているんですよね。最初のあたりで主人公は、「小籠包は少し冷ましてから食べたほうがおいしい」みたいなことを、彼氏にけっこう強気で主張していた。でもラストで、彼と別れた後に冷めきった小籠包を食べたら、惨めさや喪失感と相まって、生涯忘れられないだろうほどのまずさだった。ラストシーンで、他の客の楽しげな笑い声を聞きながら主人公が語る、「あぶくみたいに絶え間なくはじけるそれは、知らない世界から響いてくる新しい音楽のように聴こえた」という一文はとてもいいですね。描写とか心情表現とかがエピソードとしっかり絡んで、主人公の心境に変化が訪れたということがちゃんと描かれていたと思います。
ただ、主人公がここまで打ちのめされているということに、なんだか飲み込めないものも感じます。というのも、主人公はべつに、失恋したわけではないですよね。彼氏にはフラれたかもしれないけど、これは失恋ではない。
そうですよね。主人公は伊藤哲也のこと、大して好きじゃないですもんね。
まあね、「伊藤哲也は私に熱をあげ、とても大切にしてくれた」、それもあって「私も彼を好きになった」というのは、「恋」とは言えないような気もしますね……。
ちやほやしてもらえたから、いい気分になれたってだけのことですよね。
その気分も、あまり長続きはしなかった。16枚目ですでに「彼にときめくことはなくなっても」と言っていますし、さらには、「彼の繊細なところや頑固なところはたまに私を苛立たせた」なんて言ってもいる。結局主人公は、伊藤哲也に本気で恋愛感情を持ったことは一度もないみたい。
一人称の語りの中で、主人公は彼のことを常に「伊藤哲也」とフルネームで呼び捨てにしている。この距離のある扱いにも、主人公の彼への熱のなさが表れているように感じます。
主人公は、前の彼氏のことも大して好きではなかったように思える。「彼の大阪出張を機に別れた」とありますが、普通、出張が理由で別れたりするかな? 「転勤」ならまだ分かるのですが。まあ、長期出張だったのかもしれませんが、結局この彼とも、あんまり盛り上がらないまま付き合いが終わったようですね。主人公は、あまり本気で誰かを好きになったことがないのかなと思います。
伊藤哲也が甘い雰囲気に持ち込もうすると、鼻白んで拒否したりする。なのに、「このまま適当に付き合い続けて、三十歳までには結婚ってことになるかな」なんて都合のいいことを考えているのは、読んでいて引っかかるものがありました。
「まあ悪くない相手だし、この人で手を打っておこうか」という感じで、かなり上から目線ですよね。私は正直、この主人公の考え方や気持ちはやや理解の範囲外にあった。いや、「こういう人、現実にも絶対いるだろうな」と思うんですが、あまりにも自分の発想とかけ離れていて、「ええっ!?」の嵐でした。それでもぐいぐい読めたから、やはりうまい作品だと思いますし、自分とはまったく異なる登場人物の考え方や気持ちに触れられるのが、小説のいいところですよね。しかし、「たいして好きじゃないなら、無理してつきあわなくていいのに」と、ついお節介にも主人公を心配してしまったのは事実です。
自分からは連絡もしないんですよね。彼に優しくされたり、デートに連れ出されたりしても、嬉しそうな反応は見せないし、「ありがとう」さえ口にしない。与えられる愛情はちゃっかり受け取ってそれなりに満足しているくせに、「私はニヒリストだから」と開き直って、自分から相手に与えることはしない。なのに、いいかげん疲れてきた彼から別れを切り出されると、ひどくショックを受けている。第三者から見ると、かなり勝手だなという感じがします。
20枚目で、伊藤哲也の最後の言葉を遮るんですよね。フラれっぱなしには断固としてならない。「あんたと別れたって、べつに傷ついたりしないわよ」と言わんばかりです。
精一杯の最後の強がりなんでしょうけれど。主人公は我が強く不器用な人なんだな、と気が揉めます。総じて、「結婚」を視野に入れてるわりに戦略まちがえてますよね。って、私が言えることじゃないんだけど(笑)。
本来作者が書こうとしたのだろう話は、なんとなく推測できるんです。傷つくことを恐れ、本気で恋することから逃げていた主人公は、最後に大きな傷を負ってしまう。先回りして自分を守ってばかりいたら、結局、最も手痛い打撃を受けてしまうハメになった。そうなってはじめて、主人公は自分の愚かさを思い知る、という図式です。でも、そういう話にしたいのなら、主人公が伊藤哲也に本気で恋していたという設定でないと成立しないと思う。
本気で好きだった、絶対に失いたくなかった、なのに失ってしまった。だからこそ、「好きなら本気でのめりこめばよかったのに、なんてバカなことをしてしまったんだろう」と後悔するわけですからね。どうして作者は、「主人公は伊藤哲也に恋している」という設定にしなかったのかな? すごく不思議だし、すごく残念です。そういう設定のもとに書かれていれば、読み手に切なさと共感をもたらすいい作品になり得たのではと思えるのに。
一人称なので、主人公が本心を隠して語っている可能性もなくはないですが、読む限りにおいてはそうは思えない。恋心って、どんなに抑えようとしても、どうしようもなく滲み出てしまうものですよね。そういう、伊藤哲也へ向かう恋する想いは、主人公の語りには全く感じられなかったです。
また、主人公が本気で恋する相手にするのなら、伊藤哲也の描き方はやや魅力不足だと思います。優しくてすごくいい人だとは思うんだけど、それだけですよね。伊藤哲也もまた、主人公に本気で恋しているわけではないと思う。
主人公に惚れこんで付き合っているのではなく、「美人だし、年齢も釣り合うし、いいんじゃない? 俺も結婚考えなきゃだし」程度の気持ちなんじゃないかな。
クルージング、人気のスポット、誕生日のサプライズと、ものすごくテンプレートなデートのチョイス。伊藤哲也、はっきり言ってかなり退屈な男ですよ。いや、わかんない、こういうのが一般的に「素敵なデート」なのかな。自分の交際観に自信持てないから、もうなにもかもわかんなくなってきた(笑)。
強いて言うと、作者が伊藤氏を「素敵な男性」と思って書いているのか、「退屈な男」と思って書いているのかが、やや不明瞭なのかもしれません。前者だとすれば、主人公が本当は心の底から彼を好きだった、ということをもう少し前面に出して描いたほうがいいし、後者だとすれば、「ではなぜ別れに際して、主人公はこんなに打撃を受けているのか」をもう少し丁寧に表現したほうがいい気がします。個人的には、物語の最後で主人公の心境に変化が訪れる展開自体はいいと思うのですが、伊藤哲也は、主人公にそれほどの影響を与える人物には思えなかったです。
主人公の恋人役にするなら、もう少し魅力と個性をつけたほうがいいですね。例えば「小籠包」にしても、今まで付き合った人たちは、「こう食べるのが一番おいしいんだ」と押し付けてくるばかりだったのに、伊藤哲也だけは「なるほど、君の言うとおり、ちょっと冷ました方がじっくり味わえるね」と言ってくれたとか。「彼だけは他の人と違う」という描き方にしたほうが、伊藤哲也の「特別感」が出たと思います。
でも実際は、主人公もまた、「私を大事にしてくれるんだから、この人でべつにいいや」程度の気持ちでしかないですよね。雑誌で紹介されていそうないかにもなデートも、実は内心で嬉しく思っているんだけど、相手が誰かはあまり関係ないのでしょう。単にヒロイン気分が心地よかったんだと思います。ラストでも主人公は、「恋人だった男の声や顔は忘れても、このしょぼくれた味と、涙でにじんだ景色をずっと忘れない」みたいなことを言っている。伊藤哲也は記憶にも残らないと、本人が言ってるんです。だからこれ結局、恋愛話じゃないんだと思う。自意識の話なんです。主人公は最後まで、自分一人の世界の中にいる。そういう自分のことを「なんてさみしい人間なんだろう」と泣いているんだけど、本当にそれを思い知るにしては、今回失ったものはさほど大きくない。だって、恋してないんだから。
私はこの主人公は、絶対的な愛とか運命的な恋みたいなものをすごく求めているんだけど、どうやらそんなものは手に入れられそうもないという、諦めに似た悲しみを抱えている人なのかなと思いました。本当は、身も世もなく没入できる愛が欲しいんだけど、その一番欲しいものは、たぶん一生手にできない。万一手にしたとしても、こんなに傷つくことを恐れてばかりいる自分では、その恐怖に押しつぶされてしまう。結局どう転んでも、自分は心から幸せになることはできそうにない。主人公が常に、感情のレベルを抑えて生きているのは、そういう悲しみゆえなのかなと思います。
確かに主人公は、ちょっと自分勝手だったりして、あまり読者に好まれそうな人物ではないですが、これは、ラストで打ちのめされる展開にするために、作者があえてこう描いているのかもしれないと思いました。
15枚目で、主人公がなぜ恋愛に本気で向き合えないのか、その理由が語られていますよね。主人公は身勝手というより、むしろ過度に臆病なんです。ここで語られている主人公の思いが、もう少し有機的にストーリーに絡んで、具体的なエピソードとして盛り込まれていたら、この主人公はもっと読者の共感を得られたんじゃないかな。そこがすごくもったいないなと感じました。
確かに、15枚目で明かされる主人公の恋愛観みたいなもの、こういう気持ちは、誰しも持っているものだろうと思います。「大丈夫! 素直にぶつかっていけ!」って思わなくもないですが、相手のことを好きであればあるほど臆病になってしまうというのは、すごくわかる。
ただ、その臆病な内面、感情を描きたいのであれば、なおのこと、主人公は本心では伊藤哲也に恋していたという話にしたほうがよかったと思います。作者はそのつもりでお書きになったかもしれないですが、もうちょっと読者に見える形にして描いたほうがいいですね。現状では主人公は、相手が自分に熱を上げ、優しくしてくれたり豪華なデートに連れ出してくれたりするから「この人でもいいか」と思っているように感じられます。本当に「心から愛し愛される唯一無二の人が欲しい」のなら、「適当に付き合い続けて、三十歳までに結婚を」みたいなことを考えたりはしないでしょう。
ただ、現実においては、「良さそうな人と、できれば二十代で結婚したい」と思っている女性は、けっこう多いのではないかと思います。そういう読者にとっては、この話はすごく刺さるのかもしれない。「私の苦しみがここに描かれている」と感じて。
同じ苦しみを抱えている読者が読んだとしても、共感度が高いかどうかは、ちょっと疑問に感じます。というのも、この主人公は「美人」という設定ですよね。
そのあたりの塩梅は私も非常に気になって、「美人設定、この作品に必要だっただろうか」と思いました。会社の先輩が、「うちの営業事務に美人がいる」と言っていたり、伊藤哲也が、「こんなにきれいで気の利く人になぜ恋人がいないのか」と不思議がっていたりする時点で、「この男たち、ろくなもんじゃねえな」と私などは思いますが、作者がなぜこういう描写を入れたのか、意図がやや曖昧です。つまり、「こいつら、顔がよくて気が利く女が好きなんですってよ。ろくなもんじゃないですよね」という読者への目配せなのか、単に「主人公アゲ」なのか、ちょっとつかみにくかった。一人称の話でこういう描写を入れると、「語り手が自分自身を『美人だ』と言っているんだな」と読者が受け取る可能性が高く、主人公への共感度が下がるので、塩梅が難しいところですね。
「恋愛に没頭しない、サバサバしたタイプなんだ」というのも、「美人だから、がっついたりしないんだろうな」と受け取れてしまう。伊藤哲也にちやほやされることを、わりと平然と受け入れているのも、美人だからそういう扱いに慣れているのかなと。
河田先輩と妙に距離感が近いですが、この先輩はもしかして主人公のことを好きなのかな? 主人公、やけにモテてますよね。と、読者に思われるのは、得策ではないと思う。
主人公が綺麗で魅力的な人物だと読者に印象づけたいということだと思いますが、やり方がちょっとうまくない気がしますね。たとえば、「美人だ」と言われてもさりげなく聞き流しつつ、内心で「否定しても肯定しても角が立つだろ、うぜえんだよ」と思ってるとか。この主人公はそんな悪態吐くキャラクターじゃないですが(笑)、まあそういう、「だよねえ」って読者に思わせるような目配せがあるといいのかなと思います。
脇キャラに直接「美人だ」と言わせるのではなく、例えば恋人をすごく魅力的に描くとかね。前の彼氏とか伊藤哲也を素敵な男性として描いていれば、「そんな人に愛されている主人公もまた、とても素敵な人なんだろうな」となる。そういうやり方でも登場人物の株は上げられます。
あと、主人公の名前が「吉川」と「吉原」と二つ出てきますね。単なるミスだとは思いますが、よりによって主人公の名前を間違えるというのは、かなり引っかかります。主人公が独立したキャラクターではなく、作者の気持ちを代弁するアバターみたいな存在なのかなとも感じられる。作者がこの主人公に、無意識に自身の気持ちを仮託しているのかなと。
一度、自分とはかけ離れた主人公、かけ離れた世界の話を書いてみるのはどうでしょう?
それはいいですね。解像度の高い描写ができるかたですから、その描写力を活かしたまま、本作とはまたちがった立場や考え方の人になりきって書くうちに、ご自身の意図をより伝えやすくするための、「魅力的な登場人物像」のコツがつかめてくるのではと思います。
描写は本当に素晴らしいと思います。小籠包を食べるだけの行為をクライマックスに持ってきていますが、普通、そんな構成で小説を書こうとは思わないですよね。なのに、その思いつきをきっちり成功させているのだからすごい。描写力だけで見事に物語を最後まで支えきっています。心情描写と情景描写がうまく重なって、クライマックスを成立させている。
完成度は非常に高いですよね。
それだけに、「どうしてこんな書き方を?」と引っかかるところが、大きく目立ってしまいましたね。とにかくも、主人公には本気の恋をさせていてほしかった。それなら、物語の流れと構造がピッタリとはまって、描こうとしたテーマもすんなり読者に届いたのではと思えます。非常に惜しいです。
同感です。ただ、改めて考えてみたら、これだけ描写力、文章力、構成力のある書き手なのですから、こちらがあれこれ口を出すのはあまり適切ではないような気もしてきました。この路線で振り切ってみるのもいいのかもしれない。ただ、主人公の描き方――恋心をどの程度醸し出すかや外見描写の塩梅については、もう少し工夫してみてもいいかなと思います。
評を読んで初めて、「そんなふうに受け取る読者もいるのか」と気づくことがあるかもしれない。もし参考になる部分があるなら、取り入れてみていただければと思います。