第3回
「鮫ヶ尾城」
言い忘れてましたが、今回の写真は、私と担当Tさんが撮ってますので、元祖ミラージュ紀行カメラマン黒崎さんのような情緒はありませんが、大目にみてもらえるとありがたく……。
さて、鮫ヶ尾城にやってきました。
春日山城から在来線で二駅ほど離れた「新井駅」の近くにあります。
御館の乱で、景虎が自刃したお城です。
(【おさらい】御館が景勝方に攻撃され、脱出した景虎は鮫ヶ尾城に入るのですが、城主堀江宗親の裏切りにあってしまい、自刃に至ります)
斐太歴史の里の髙橋様にガイドをしていただきました。
鮫ヶ尾城にはなんと弥生時代の集落跡(斐太遺跡)もあります。小高い丘に集落をつくり、戦に備えたとも。『魏志倭人伝』にある「倭国大乱」の頃で、いわば「弥生の戦国時代」。実は由緒正しい(?)山城だったんですね。
今回はそんな弥生の竪穴式住居跡もみられる東登山道からあがりました。
どこに竪穴式住居があったかは、雪解けの頃がわかりやすいそうです。
住居跡にできたくぼみにだけ雪が残るので、目で見てわかるんだとか。
そちらのルートは勾配もゆるやかで、尾根道をすぱーんと断つように堀切(空堀)があるので、慣れてくると「あ、ここ堀切ね」とわかってくる。ちょっと山城のプロっぽい気分。あがってくる敵を防ぐ工夫です。
そんな防御にすぐれた城でも、城主の裏切りにあっては、ひとたまりもなかったのでしょう。戦国の世を生き残るためとはいえ、堀江~。
上のほうは勾配がきつく、鎖場(?)っぽいとこもあるので、管理棟でストックを借りるといいです。私と担当Tさんもしっかり持っていきました。熊よけ鈴もついてる。いのししも出る(芋を掘った跡がそこここに)。
景虎様が自刃した場所だと伝わる井戸に案内してもらいました。
ここで景虎様が……。としんみり。
本丸の少し下にあって、炊事場もすぐそばに。城跡では炭化おにぎりも出土してるそうなので、戦のさなかに誰かが一生懸命握っていたと思うと、涙が。
景虎様に食べてもらおうと握って持っていったけど、「もうよいのだ……」と景虎様に告げられて、悔しい涙を流したひともいたかもしれず。
届けようとしたけど、すでに自刃したあとだったかもしれず(これはつらい……)。
そんなふうに四百年前リアルに起きた出来事が、いくらでも想像できてしまうのは、やはり現場の力なんだろうな。
本丸に到着しました。
頸城平野が一望のもとです。とても良い眺め。
暑かったけど、吹く風が心地よく。
「鮫ヶ尾城碑」と記した石碑の前に、お線香をお供えして、
「景虎様……。きましたよ」とご報告。
実は前日に舞台「炎の蜃気楼 昭和編」のロケに同行していたので、二日連続の登城。前日は夕方にあがり、スタッフキャストの皆さんで賑やかだったのですが、今日はいつもの静かな山頂の雰囲気を味わいながら、いっしょに登った皆でちょっぴりブレイクタイム。
次第に汗も引き、降り注ぐ陽差しも気持ちよく。
ここで景虎公を護って亡くなった家臣の方々も、たくさんいたでしょう。
悲しい記憶が埋もれている場所だけど、不思議と、暗い感じは受けず。
私、霊感がないんですが、旅をしているとたまに「ここはまずいかも」と思える場所に遭遇します。でも、鮫ヶ尾城にいる間は不思議とそれがなかった。
なんでだろう。
たしかに落城したお城ということで、地元の方もずっと手をつけずにいたため、いまも戦の遺物がたくさん出るそうです。戦で死んだひとたちの無念も残ってるでしょう。
景虎様の井戸の周りも悲しい感じはしたけど、だけど、陰湿な空気ではなかった。
地元の方々が日々大切に保護しているからか。
それとも私の気持ちなのか。
高橋様の指導のもと、米倉跡で焼け米も探しました。
ほんとうにすぐ見つかります。土を掘らなくてもほんの少しかきわけただけで、黒い焼け焦げた米が。
物言わぬ米がなによりも雄弁に、四百年前に起きた出来事を伝えていました。
下山は足も軽やか。おなかもすきました。
地元で有名なとん汁を食べに行きます。
ガイドしてくださった髙橋様、久保田様、ありがとうございました。
鮫ヶ尾城跡を擁する斐太歴史の里は、
散策にうってつけの緑豊かな公園です
弥生時代の竪穴式住居の復元も。
景虎公の時代よりさらに千三百年前の遺跡です
景虎公がここで亡くなったとされる井戸跡。
今は緑に覆われ、静謐な雰囲気
林泉寺で「謙信公の愛した香」を買って、
石碑に供える桑原先生
通称二ノ丸跡。焼けた遺物が出土したことから、
ここまで戦火が及んだことがわかります
四百年の間、この地を見守り続けていたのでしょうか