今日は、朝から一つも解剖が入っていない平和な午後だ。
その代わりと言ってはなんだが、実験室が俺の戦場になっている。
法医学教室は、解剖ばかりやるのが仕事だと思われがちだけれど、そうではない。
最近は薬毒物のややこしい分析こそ科捜研に託すことがほとんどだけれど、それ以外の……たとえば血液型やDNA型の分析なんかは、俺たちの大事な仕事だ。
といっても、俺は院生だから、まだ責任ある仕事を任せてもらえる立場じゃない。
もっぱら、俺の指導教官であり法医学教室の講師である郷間ひより女史と、今、入院中の臨床検査技師さんが、その仕事を引き受けている。つまり、今は、ひよりさんがひとりでやっている。
そんなわけで、今日みたいに時間があるときには、ひよりさんがたまりにたまった検査業務をしている横で、俺も、実験の「練習」をさせてもらうことにしている。
うちの教室には、学生有志や職員から採血して抽出したDNAサンプルがたくさん保存されているので、それをちょっぴり使わせてもらって、腕を磨くのだ。
今どきは、お金さえ出せばハイテク機器が買えるので、DNA分析もずいぶん簡単、かつスピーディーになった。
うちにも、けっこういい奴が一台ある。
でも、「家内制手工業みたいなやり方も、ちゃんと経験しとかないと。機械がなきゃ何もできないんじゃ、人間でいる意味ないだろ」と関根教授は口癖みたいに言うし、確かにそのとおりだ。
というわけで、今日は学生実習と同じ手順で、アルコール分解酵素の有無をDNA型から調べる実験をやってみることになった。
「ちょっと待ってね。この子たちをお風呂に入れてから、ちょうど待ち時間で教えてあげられるからさ」
そう言いながら、ひよりさんはテキパキと作業をしている。
スタンドにズラリと並んだ小さなチューブに、ピペットマンで次々液体を入れていく。
見るたび、田植えを思い出す光景だ。
そういえば、この手の単調な作業をしているとき、ひよりさんはいつもヘッドホンで音楽を聴いている。
「何、聴いてるんですか?」
俺は、ちょっとした好奇心から訊ねてみた。
どうやら音楽は、俺の声が聞こえる程度のボリュームだったらしい。
マスクはしたまま、ひよりさんは器用にヘッドホンを右耳だけずらした。
「色々ランダム再生してるけど、ここ三曲くらいは立て続けにB'z」
「ああ……それでさっき、唐突に拳を突き上げてたんだ」
「うん、ウルトラソウル」
あっさり答えて、チューブの蓋をパタパタと全部閉めてから、ひよりさんは立ち上がった。
サンプルを、「お風呂」、つまり恒温槽に入れるのだ。
彼女の作業をぼんやり見守っていた俺は、慌てて席を立ち、恒温槽のお湯に樹脂製の板を浮かべた。
板にはたくさん穴が空いていて、そこに小さなチューブを一つずつ通して浮かせておく。本当に、小さい子がみんなでぷかぷかお風呂に入っているようで、ちょっと可愛い。
実際、ぬるいお風呂くらいの水温なので、指を突っ込むとなかなか気持ちがよかったりする。
「さて、お待たせ。DNAサンプル取りに行こっか。学生実習用に採った、身内のサンプルがまだ残ってるから、それを使おう」
そう言うと、彼女はヘッドホンを外して首に引っかけ、戸口に向かった。
金魚の糞よろしくついていくと、彼女は実験室の隣の部屋の扉を開けた。
中に入ると目の前にはさらに扉が二枚あり、左側は広い物置だ。俺も何度も入ったことがある。
でも、右側の扉にはいつも鍵が掛かっていたし、小窓もないので、これまで中を覗くことすらできなかった。
「じゃじゃーん。秘密の鍵!」
景気のいい声と共に、ひよりさんは白衣のポケットから鍵束を取り出すと、小さめの鍵を穴に差し込んだ。
「そして、秘密の部屋」
防火扉を開けると、そこは細長くて窓のない部屋だった。
壁に寄せて二つ並んでいるのは、蓋を上向きに開ける方式の、大型フリーザーだ。
「奥がマイナス25度、手前がマイナス50度。サンプルによって、入れる場所をどちらかに決めるの。奥にはだいたい、組織が入ってる」
「わざわざ、部屋に鍵を掛けてるんですね」
「そりゃ、究極の個人情報だもの。本格的に研究をスタートしたら、白川君にも合鍵を渡すけど、それまで、サンプルを出したいときは私か教授(プロフェッサー)に言ってね」
「了解です」
俺が敬礼の真似事をすると、ひよりさんは頷き、手前のフリーザーの前に立った。
「サンプルはケースに入ってて、それぞれサンプルの採取年月日と通し番号が打ってあるから……」
そう言いながら、重いハンドルを引き、蓋を引き上げた途端、ひよりさんの顔が険しくなった。
「……もう!」
憤然と蓋を閉め、そのままツカツカと部屋を出ていってしまう。
「???」
何が起こっているのかわからないまま、俺は慌ててひよりさんを追いかけた。
彼女はセミナー室に入るやいなや、「関根先生!」と大声で呼んだ。
ただ呼ぶというより、頭ごなしに子供を叱りつけるような声音だ。
俺はまだ、そんな勢いで叱られたことがないので、戸口で思わず固まる。
すると、教授室の扉がそろっと細く開いて、関根教授が顔だけを出した。
ロマンスグレーの紳士が、早くも叱られ坊主の顔だ。
「何でございましょうかね?」
部下と話しているのに、妙に腰の低い口調で問いかける関根教授に、ひよりさんはツケツケと言った。
「また、マイナス50度のフリーザーに青汁なんか入れて! 一昨日、サンプルを入れたときはなかったのに、いつの間に……」
「昨日届いたんだよ。いいじゃないの、場所が空いてたんだから」
いつだって飄々としている関根教授は、ひよりさんに叱られてもどこ吹く風だ。
「空いてても、ああいうものを入れられると、サンプルが探しにくくなります。こないだはカップアイスが入ってたし、その前はイクラ醤油漬けだったし、今度は青汁って! だいいち、青汁はマイナス50度で保存しなくてもいいはずです。百歩譲って、実験室の普通のフリーザーに入れてください」
「だってこう、有効成分が損なわれることなく保存されそうじゃない? マイナス50度って」
「そんなに長々入れておかないくせに。さ、出してください」
「はいはい。ケチだなあ。うちの娘といい部下といい、どうして女子はみんな僕に厳しいんだ」
まるで飲み屋で愚痴るような口調でブツクサ言いながらも、関根教授はゆったりした足取りでサンプル室へと向かう。
さすがに呆れて、俺はひよりさんのまだ怒り気味の顔を見た。
「教授……青汁、飲むんですか」
「糖尿病予備軍なんですって。だからって、青汁を飲めば何とかなるわけじゃないでしょうにね。冷凍の青汁をしこたま買って、最近、朝夕飲んでるの。まずいと、効く気がするんですって」
「……そういえば、実験室の冷蔵庫に養命酒が入ってたのは……」
「ああ、あれは技師さんの奴。冷え性にいいんだって」
けろりと答えるひよりさんに、俺は躊躇いながらも切りだした。
「あの、俺、一度突っ込もうと思ったんですけど」
「ん? 何?」
「ここ、ドクターが俺を含めて3人もいるわりに、置いてあるものが医学部らしくなさすぎじゃないですか?」
「っていうと?」
ひよりさんは、むしろキョトンとした顔つきになる。
俺は、セミナー室の書棚を指さした。
「青汁も養命酒もそうだし、あそこの救急箱に入ってるのは、オロナインにルルにマキロンにイブクイックだし……」
「全部、お役立ちよ?」
「そうかもしれませんけど、一応、医学部なんだから医科用のものを置けばいいのに」
「無理」
やけにきっぱりとした切り口上で、ひよりさんは断言した。
「無理って、どうして?」
「だって、うち、治療はしないんだもん。処方もしないわ」
「あ……そ、そっか!」
「そ。薬に囲まれて仕事してる臨床の先生とは、全然違うのよ。受診するほどじゃなければ、家庭用の薬を買ってきたほうが、話が早いでしょ」
「……ああ……なるほど」
「ちゃんと効くんだから、いいじゃない。さ、サンプルを出すわよ」
さらりと言い放って、ひよりさんはセミナー室を出ていく。
そんな彼女の机の上にズラリと並べられたサプリメントのボトルを見て、俺は思わず、「なるほど、上司と部下で似た者同士……」と呟いたのだった。