「ねえ。別にハラスメントをするつもりはないから、嫌なら答えなくていいけど」
そんな風にひよりさんが切り出したのは、金曜の夜のことだった。
秘書さんは定刻の午後5時に、関根教授は30分ほど前に帰り、今、セミナー室にいるのは、ついさっきまで実験ノートをつけていた俺と、鑑定書を書く準備をしているひよりさんだけだ。
俺は帰り支度をしようとノートパソコンの電源を落とし、机の上を片付けながら、何の気なしに応じる。
「何ですか、改まって」
「彼女的なものとか、彼氏的なものとか、その他、とにかく金曜の夜をロマンチックにご一緒するようなお相手はいる?」
思わぬ質問に驚いて、俺は座っていた椅子を回転させてひよりさんのほうを向いた。
「は?」
「アゲイン、拒否権はご遠慮なく発動していただいて結構なんだけど?」
と言いつつも、お答えをどうぞ、と促すように、ひよりさんは片手を上げてみせる。
俺は、首を捻りながらも正直に答えた。
「残念ながら、彼女的なものはもう2年以上いないですし、彼氏的なもの及びその他がいたことはないですけど、何すか、いきなり」
「やー、ほら、やっぱおつきあいしてる人がいるのに、夜遊びに誘うのはよくないこともあるじゃない? だから、先に確認しとこうと思って」
「夜遊び? なんか怖い言葉だなー。飲みとか飯とか、そういうアレじゃなくて?」
「そういうアレじゃなくて、見ようによっては、デートになるやつ」
「マジで! えっ、俺、今からデートに誘われる流れですか!?」
別にひよりさんが嫌いなわけではないけれど、指導教官とデートするとなると、ちょっと及び腰になる。
医者の世界は学生時代からとにかく狭いので、人間関係が煮詰まりやすい。
元彼元カノが実習や研修で顔を合わせる修羅場を、何度も見てきた。
俺は、絶対にあの地獄を経験したくない。
そんな気持ちが、表情と声から伝わってしまったのだろうか、ひよりさんはちょっと慌てた様子で両手を振った。
「あっ、そんなつもりは全然ないのよ? 年下に興味はないし、口説く気はゼロ」
「じゃあ、なんでデート?」
「だから、見ようによっては、って言ったでしょ」
「なんだ、実際は違うって意味ですか」
「そ。今から、映画見に行かない?」
「今から?」
俺はちょっと驚いて、壁掛け時計を見た。昼過ぎから始まった司法解剖が思いのほか長引いたせいで、時刻はもう午後八時を過ぎている。
「今からやってる映画って、オールナイト系ですか?」
「そこまでじゃなくて、レイトショー。ネットで鑑賞券を当てたのを、財布に入れっぱなしで忘れててさ。思い出したのが今日だったんだけど、まさに今日が最終なのよ」
「ああ、あるあるですね」
「でしょ。急なことだし、仕事をしてる友達は、だいたいもう自宅でくつろぎ中でしょ。今から出てこいっていうのは酷だわ」
「確かに」
「それに、そもそもこの歳になると、友達の多くは結婚して子育て中だったりするわけ。夜遊びには誘いにくいわよ」
「なるほど~。それは三十路あるあるですね。誰かが結婚するたび、遊び相手が減っていく的な」
「やめて、その大雑把な括り方」
「でも、真理でしょ」
「くう、言い返せない。とにかくそういうわけで、いちばん誘いやすいのが白川君なんだけど、無理強いは嫌だから」
やっと事情がわかって、俺は笑って承知した。
「いっすよ、特に予定ないんで。あ、でも」
「何? やっぱり何か不都合ある?」
「あるかもしれないんで、一応訊いときます。何を見る予定ですか?」
ひよりさんが答えたタイトルは、CMで予告編を見たことがあり、少し気になっていたアクション映画だった。
それならばと、俺は胸を撫で下ろす。
「だったら行きます」
「何だったら行かなかったの?」
興味津々の問いかけに、俺は即答する。
「恋愛ものと人情ものと動物もの」
「わあ、はっきりしてるー」
それを聞くなり、こちらも手早く帰り支度をしながら、ひよりさんはクスクス笑った。
ちょっと小馬鹿にされたようで、俺はムキになって言い訳する。
「だって! 恋愛ものはめんどくさいし、人情ものは鬱陶しいし、動物ものは……」
「動物ものは?」
「動物が死ねば泣くだろみたいな安直さが大嫌いだし、それがわかってるのにみすみす泣いちゃう自分が死ぬ程嫌なんですよ。とにかく、お金を払ってストレスを感じる趣味はないんです、俺」
「なるほど。わかる気がするわ。特に動物。感動を押し売りされてる気分よね」
「そうそう、それです。で、ひよりさんの駄目なジャンルは?」
「んー。とにかく出ようか。話は歩きながらで」
そういえば、映画館まではわりに近くても、開始が午後九時と書いてあったから、さほど時間に余裕はない。
俺たちはそれぞれの荷物を持ち、戸締まりと火の元を確認してから、法医学教室を後にした。
駅に向かって歩きながら、ひよりさんはボソリと言った。
「私は、ホラーが駄目だなぁ」
忘れかけた頃に返ってきた意外な答えに、俺は「ほぁ?」と我ながら奇妙な声を出してしまった。
「マジですか? あの、井戸から這い出してくる系? きっと来る的な?」
するとひよりさんは、笑ってかぶりを振った。
「違う違う。そっちはいいのよ。背後から近づいてくるっていうのは気持ち悪いけど、友達と一緒にギャーッて言いながら見るの、けっこうストレス解消になるじゃない?」
「じゃあ、何が駄目なんです?」
「欧米系のホラー。あの、チェーンソー持って襲ってきたり、無闇に血だらけになったりする奴」
「ああ、物理的に殺される恐怖推しのほうですね」
「うん、それ」
「なるほど。……ん?」
一瞬、納得しかけたけれど、それはそれで、意外過ぎる答えだ。
「だけど、血とかその他色々とかって、解剖で嫌ってほど見慣れてるじゃないですか。今さら、怖いってことは」
「誰も怖いなんて言ってません。駄目って言ったの」
切り口上で訂正されて、俺はますます混乱する。
「怖くないけど、駄目? 気持ち悪いとかいうわけじゃ」
「ないわよ」
「じゃあ、どうして駄目なんです?」
「だって、腹立たしいじゃない」
別に茶化しているわけではないらしく、街灯の白い光に照らされたひよりさんの顔は、至極真面目だ。
「腹立たしいって、いったい何が?」
「だってほら」
ひよりさんは右の人差し指を立てて、自分の左脇腹を刺す真似をした。
「あっちのホラーって直接的だから、やたら切ったり刺したり折ったり割ったり裂いたりするじゃない?」
「……しますね」
「そのたびに、飛び出してくる内臓を見て、『違う、そんな場所から、そんなものは出てこなーい!』ってむかっ腹が立つのよね」
「う」
「だいたいああいう映画を作る人たちって、大網(だいもう)の存在を蔑ろにしすぎだと思わない? せっかく腹部を守るために、胃の大彎(だいわん)からビローンと下がってるのに! 無視しないであげてほしいところだわ」
ひよりさんが憤然と口にした「大網」というのは、胃の壁からロールカーテンのように腹部前面を覆う、二重膜のことだ。
膜と膜の間に脂肪を蓄えるので、内臓を物理的に保護してくれる上、お腹の冷えも防いでくれる優れものなのだが、確かにホラー映画で飛び散る内臓に、大網の姿は見かけない気がする。……するけれど、なにもそんなに怒らなくても。
こだわりは人それぞれということなんだろうか。
「そういうわけだから、次、白川君が相手を探してるときは、映画でも舞台でも付き合うけど、その手のホラーだけはやめて」
ひよりさんにそう言われて、俺は指を折りながら確認した。
「ひよりさんが洋風ホラーが駄目、俺が恋愛もの、人情もの、動物ものが駄目。となると……二人共がオッケーなのは、アクション、サスペンス、SF……」
「ミステリーも。だけどその場合は、日本の法医学者が出ない奴にしてね。同業者が出るドラマって、なんだかイラッと来るから」
「……ちょっとわかる気がします」
俺が相づちを打つと、ひよりさんは本心を出し過ぎたと思ったのか、ちょっと気恥ずかしそうに笑って言った。
「さて、急がなきゃ。あと、終わって終電までに時間があったら、晩ごはん、何か奢るわ。考えといて」
「考えるまでもなく餃子がいいです。金曜なんで、ニンニク解禁で」
「週末、解剖が入るかもよ?」
「そのときはそのときです。教授に泣いてもらいましょう」
「オッケー、じゃ、それで」
関根教授が聞いたら、眉毛を八の字にして「君たちは~」と嘆きそうな同意に至り、俺たちは煌々と明かりの灯る映画館へと足を速めた……。