「あっ!」
そんな小さな叫びに続いて、
「……せっちゃぁん」
心の準備をしておかないと笑い出してしまいそうなくらい、女の人の情けない声が私の名前を呼ぶ。
声の主は、見なくてもわかる。
私の職場には、女性は私ともうひとり、郷間(さとま)ひより先生しかいないからだ。
笑うまいとしたのに、やっぱり少し笑ってしまいながら、私は「はあい」と返事をして、椅子を郷間先生のほうに回転させた。
私の名前は、古橋節子(ふるはしせつこ)。
法医学教室の秘書をしている。
何だか昭和臭みなぎる名前だから、会ったことのない人にはずいぶん年配だと思われているけれど、まだ二十三歳。
この職場ではいちばん若い。
今はちょうど、友達の中でも先発組が、次々と結婚していく時期だ。
クラス会で近況報告をするとき、「医大で秘書をしています」と言ったら、みんなきまって、「玉の輿(こし)に乗れそう?」とか、「お金持ちでイケメンのドクター紹介してよ!」とか、とにかく物凄い勢いで食いついてくるのでビックリする。
みんな、そんなに結婚したいんだろうか。
しかも、そんなに玉の輿ライドオンを狙っているんだろうか。
私には、まだ全然ピンとこない。
というか、玉の輿なんて見たことがないし、お金持ちでイケメンのドクターの知り合いなんてひとりもいない。
みんなに合コンのセッティングをせがまれても、半笑いで困ってしまうばかりだ。
そういえば、たまに別棟に用事で出掛けたとき見かける臨床の医局の秘書さんたちは、皆さんけっこう華やかだ。
綺麗にお化粧して、白衣の襟から素敵なアクセサリーをチラ見せしている人も、爪を綺麗に塗った人も多い。
お医者さんと結婚して寿退社することも、それなりにあると噂で聞いている。
でも、うちは……法医学教室は、違うのだ。「華やか」なんて言葉は、どこにも使いようがない。
地味。
そう、環境もメンバーも、その言葉が物凄くしっくり来る。
勿論、私を含めて。
法医学教室には、男性は教授と、今は休職中の臨床技師さんと、この春に来たばかりの院生の白川(しらかわ)先生しかいない。
その中で白川先生だけは独身だけれど、今は学生だからお金持ちではなさそうだし、イケメン……うーん……確かにルックスは悪くはないけれど、そこまでではない、ような気がする。
でも、白川先生はいい人だ。
学生とはいえお医者さんなのだし、私より年上なのだから、もっと堂々と振る舞えばいいのに、いつも気を遣っている感じがする。
どうも秘書の私まで、職場の先輩として立ててくれているみたいだ。
たぶん凄く律儀で、真面目な人なんだと思う。
そんな人なら、今は多少貧乏でも、そのうちきっと何とかなるだろう。友達に紹介しても大丈夫かもしれない。
そう思った私は、少し前、先生が暇そうにしているときにさりげなく合コンの話を振ってみたことがある。
とはいえドクターだから、ああ見えて、女の子のステータスや容姿に対する要求水準は意外と高い可能性がある。
そう警戒した上で訊いたので、先生が困った顔で「いや、それはちょっと」と言ったとき、私はすぐに「ですよね」と笑って話を引っ込めようとした。
でも白川先生は、慌てた調子でこう付け加えた。
「いや、古橋さんの同級生がどうこうってことじゃないよ。むしろ、俺なんかにそういう話を振ってくれるのはありがたいんだけど……万が一、上手くいったりしたら、それはそれでちょっと気まずいことがあるじゃん」
先生の言う「気まずいこと」の意味がわからず、私は、「何がです?」とストレートに訊ねてしまった。
そうしたら先生はもっと困った顔になって、ちょっとイラッとするくらいサラサラした髪の毛を指先で弄(いじ)りながら答えた。
「だってほら、古橋さんの同級生ってことは、素人さんなわけでさ」
「素人さん?」
「医者のこととか、医療現場のこととか、知らない人ばっかじゃない?」
「それはそうですよね」
「そういう子とうっかり付き合うことになったとき、司法解剖が入ったら……特に捜査本部が立とうものなら、プライベートな用事はデートだろうが結婚式だろうが旅行だろうが、全部吹っ飛ぶなんてことは……」
「なるほど、理解してくれなさそう」
「だろー。ドタキャンが続いたら怒るか泣くか二択だろうし、説明してもそういう世界だってわからなきゃ、言い訳にしか聞こえないだろうし。それに、もっと深刻な問題としては……」
「まだ何が問題が?」
「これからデートで飯を食おうよってときに、俺がうっかり解剖の後で、軽く異臭を漂わせてたりしたら、凄く不愉快なんじゃないかと思って」
「……あー」
たぶん、そのときの私の相づちは、最高に棒読みだったと思う。
この教室で「素人」は私だけなので、私しか気付かないと思うのだけれど、解剖の後に先生がたが戻って来たとき、正直、たいてい多少は臭う。
皆さんが平気でそのままお昼ご飯やおやつを食べている一方、私はいわゆる「貰い臭い」で気持ちが悪くなって、食欲なんて綺麗さっぱりなくなることが時々ある。
白川先生の不安は、確かに大いに的中しそうで、「そんなことないですよ」とは、とても言えなかった。
「だよなあ。どん引きだよな。俺、隣に来る人に悪くて、電車で座るのも躊躇(ためら)うことがあるもん。デートなんて、それよりさらに……だろ。だから、せっかく誘ってもらって悪いけど」
そんな風に謝ってくれる白川先生はやっぱりいい人だ……と思っていたら、先生は悲しそうな顔でさらにこう言った。
「誰も好きになってくれなかったら凄く凹むし、かといって気に入ってくれても気苦労が増えるし、やっぱり合コンは俺にはハードルが高すぎるよ。ゴメンね」
変わった人だ。
何も事前にそこまでクヨクヨ心配しなくても……と思ったが、そこは性格だから仕方がないのかもしれない。
私はそっと合コンのお誘いを引っ込め、それ以来、一度も蒸し返さずにいる。
そして、そんな白川先生の指導教官のひとりが、郷間先生だ。
教室ナンバー2の先生としがない秘書とでは立場は全然違うのに、女子が二人しかいないので、先生は私にずいぶん気さくに接してくれる。
歳は、先生のほうが私よりだいぶ上だけれど、独身だからか、ちょっとぽやっとしたところがあるからか、そこまでの年齢差は感じない。
それどころか、私より頼りないところがある気がしないでもないわけで……たぶん、それが、今だ。
眉毛をハの字にしてしょんぼり近づいてきた郷間先生は、椅子に座ったままの私の鼻先に、さっき脱いだばかりの白衣を差し出した。
「取れちゃった」
その一言で、事情は飲み込めた。
案の定、続いて差し出された先生の手のひらに載っていたのは、プラスチックの白いボタンだ。
どうやら、脱いだ拍子に、白衣の前ボタンの一つが飛んでしまったらしい。
「ごめんだけど、つけて?」
そう言われて、私は笑って頷いた。
「いいですよ。ちょっと待ってくださいね」
こんなこともあろうかと、机の一番上の引き出しにソーイングセットを入れてある。
短めの針に糸を通すと、私はすぐに作業に取りかかった。
白衣は丈夫な布だから、扱いに気を使う必要はない。ただ、しっかりとボタンを縫い付ければいいだけだ。
先生はそれを感心したような顔で、突っ立ったまま見下ろしている。
「器用なもんねえ」
しみじみと言われて、私は今度こそ大っぴらに笑ってしまった。
「器用も何も、ボタンがもとあった場所に針を刺して、糸をボタンの穴に通せばいいだけじゃないですか」
すると郷間先生は、大真面目な顔で言い返してきた。
「シンプルなことほど難しいって言うでしょ。私がやると、布とボタンが密着しすぎて留められなかったり、逆にろくろっ首みたいになっちゃったりするのよ。ホントに苦手なの」
やけにキッパリ言い切る先生が、ますますおかしい。言い返さずにはいられない。
「でも先生、解剖の最後にご遺体を縫うんでしょ? すんごく上手だって聞きましたよ」
「……別に、それほどじゃ」
「だって、先生が刺青(いれずみ)の模様をビシッと合わせて細かく縫ってあげたら、ご遺族に凄く喜ばれたって聞いたことがありますもん」
すると先生は、凄く照れた顔をして、指先でほっぺたをカリカリ擦った。
そんなことで、こんなはにかんだ喜び方をする女子を、私は他に見たことがない。
「それはホントだけど。だって、生前に痛い思いをして彫ったものだもん。どうせなら、綺麗に仕上げてあげたかったから」
「だったら、お裁縫、得意なはずじゃないですか。どう考えても、ご遺体を縫うほうが、ボタンつけより難しいですよ」
「そんなことないし! ボタンつけ、最高に難しいもん」
異様にきっぱり言い切って、郷間先生はご遺体を縫うシミュレーションらしき手つきをしてみせる。
「縫合に使う針は、先端がきゅいっと曲がってて、すんごく使いやすいの。それに、糸も太いし。今みたいに、布越しにほっそい針をボタン穴に通すほうが遥かに難しい!」
「そうですかねえ」
「そうです! お裁縫も編み物もフェルト細工も、とにかく難易度高すぎて無理! 私はご遺体の皮膚を縫うので精いっぱい」
毅然とした態度で断言する先生の真剣な顔をチラと見上げて、私は心の中で、「やっぱりこの人も変わってる……」と呟いた。
何もかもが地味で、いい人ばっかりだけど、全員少しずつ変わっている。
それが、私の職場と、そこで働く人たちだ。
「私は違うけど。普通の女子だし」
思わず漏れた呟きに、郷間先生は不思議そうに「何?」と首を傾げる。
「いえ、何でもないです。もう一つ下のボタンもぶらんぶらんになってますから、ついでに付け直しておきますね」
「やった……! ありがと、せっちゃんはボタン付けの天使だなあ」
「その天使の仕事、範囲狭ッ」
茶化しながらも、意外とまんざらでもない私も、この教室の風変わりな面々に毒されつつあるのかもしれない……。
そう思いながら、私はまるでお茶のお点前のようにぴしっとかっこよく、純白の布から、銀色の細い針を引き抜いた……。