「ひよりさん、すいません。これ、見てもらっていいですか?」
教室に戻った俺は、自席で鑑定書を書いているひよりさんに、さっき実験室で打ち出してきたばかりのデータを差し出した。
秋の地方会で口演発表デビューを飾る予定なので、今からそのための実験データを取っているところなのだ。
法医学教室だけに、人体組織の分析は主要な業務の一つだ。
身元不明のご遺体も多いので、個人識別検査は、血液型からDNA型まで、すべて教室で行う。だから教室の研究テーマも、どうしてもDNAにまつわるものが多くなる。
俺の発表は、あくまでも地方会用のいわゆる「小ネタ」だけれど、陳旧(ちんきゅう)……つまり古い遺体の組織からDNAを抽出し、その遺伝子型を分析するという、法医学者としてはベーシックかつ大事な手技をマスターするためのものでもある。
今はずいぶん色んな手順が機械化されて楽になったそうだけれど、それでも勘どころというのか、あちこちに職人技を効かせるポイントがあって、それをちゃんとできるかどうかが、結果にジワリと影響する。
つまり、それが今の俺の状態だ。
実験のやり方はわかっているのに、結果が上手く出てくれない。
「んー、どれどれ」
シークエンサーが出してくれた解析データを顰(しか)めっ面でしばらく眺めていたひよりさんは、「もういっちょ」と言った。
かれこれ五日間、つまり今週が始まってからずっと、俺は毎日この言葉を聞いている。
短いけれど、容赦のない駄目出しだ。
「駄目っすか」
「結果を読むだけなら、これでいいんだけどねえ」
「やっぱり、他人様に見せられたもんじゃない、ですか。教授(プロフェッサー)に昨日言われました」
ひよりさんは、そこで初めて気の毒そうにチラッと笑ってくれる。
「そういうこと。まあ、キャピラリーシーケンサーの波形データからノイズをある程度除去することはできるけど、これはその前の段階ね。たぶん、DNA自体に不純物がまだ多いんだわ。サンプルは何を使ってるんだっけ。量は十分あるのよね?」
「毛髪なんで、山ほど」
「じゃ、後々のことを考えて、抽出をもっと訓練したほうがよさそう。まだ時間もあるんだし、お稽古だと思って」
「嫌なお稽古だなあ。でも、やっと手が慣れてきました」
俺がそう言うと、ひよりさんはふふっと笑った。
「よかった。でも、今はサンプルがたくさんあるからそうやって呑気にやってるけど、一発勝負になるときもあるんだから、真剣にね」
「はいっ。てか、やっぱ、DNA抽出が一発勝負のときってあるんですか?」
「あったわよぉ。酷いやつが」
ひよりさんはそう言うと、机のペン立てから使い捨ての注射器(シリンジ)を抜き出した。
容量一ミリリットルの、ごく細い注射器だ。針はついていない。
「注射器がどうかしました? つか、それ、なんでそんな場所に?」
「これは、そのときに練習用に貰ったやつ。余ったから、ここに突っ込んであったの」
「なんで突っ込むかなあ。そのときって?」
ひよりさんは、針のない注射器を肘窩(ちゅうか)に突き刺す真似をしてみせた。
「だいぶ昔だけど、とある家の押し入れから、使用済みのこんな注射器が、ポリ袋に突っ込まれた状態で二百本見つかったの」
「に、二百本!? ていうかそれ、何に使ったんです? 一般家庭ですよね?」
ひよりさんは、常識を問われたみたいにつまらなそうな顔で、肩をそびやかした。
「覚醒剤に決まってるでしょ。で、その家には男が二人で住んでたんだけど、二人とも、自分はやってないって言い張ったんですって。しかも実際、覚醒剤は検出されなかったの」
俺は興味津々で、自分の椅子を引いてきて、ひよりさんの近くに座った。
「それって、ホントにやってなかったから?」
「警察は、そうは思わなかったんでしょうね。むしろ、身柄を押さえられる前に、いわゆるシャブ抜きをしたんじゃないかって疑ったわけよ」
「ああ、なるほど。でも、覚醒剤が検出されないと、どうなるんですが? やっぱ、お咎めなし?」
「そりゃ、証拠なしに罪に問うわけにいかないでしょ。それで、こっちにお鉢が回って来たの。ううん、実際に回って来たのは、その二百本の注射器だけど」
「覚醒剤を打つのに使った注射器が、全部? そりゃ、内側にこびりついてる覚醒剤は検出できるでしょうけど、使った証拠がないとどうしようもないんじゃ……?」
「だからこそ、使った証拠を見つけ出せってわけよ」
「どうやって?」
首を傾げる俺の鼻先に、ひよりさんは注射器の先端を突きつけた。
「ここに残るでしょ」
「あ、そうか」
俺はポンと手を打った。
「静脈注射をするとき逆血確認をするから、注射器に血液が入るって話ですか」
「そうそう」
ひよりさんは頷く。
注射針が静脈に首尾よく入ると、静脈の中を流れる血液が、ほんの少量、針を通って注射器内部に入り込む。
もっとも、そのほとんどは中の液体と一緒に静脈へと押し戻されるわけだが、ごく僅か、注射器の中に残ることも考えられる。
つまり、ひよりさんがそのとき要求されたのは……。
「使い終わった注射器の内部に少しでも血液が残っていることを期待して、そこからDNAを抽出しろって依頼ですか?」
「あたりー」
ひよりさんは心底嫌そうな顔をして、注射器を鉛筆のようにくるんと回した。
「注射器の中に残った微々たる量の結晶化した液体をこそげて、ちょっぴりの生理食塩水(せいしょく)で濯いで、サンプルをとったの」
「二百本全部をひとりで?」
「だって、私が鑑定人だもの。こつこつやったわよ」
「わあ……で、DNA、獲れたんですか?」
「魚みたいに言わないで。でもまあ、どうにか抽出できたわ。全部じゃないけど……百十本ちょいくらいかな。それも、一回しか分析できないくらいの微量」
「ホントに一発勝負だ。で、結果は? 部屋の住人のどっちかに一致したんですか?」
「二人とものDNAが出た」
「なーんだ、どっちもやってたのか。ビンゴだけどガックリですね」
「ホントにね。姑息なことをしてくれたおかげで、こっちの人生の時間が浪費された気分だったわ。ま、それが仕事なんだけど」
やけにクールにそう言って、ひよりさんは注射器をまたペン立てに戻した。
どうしたって使い道はなさそうなのに、捨てるつもりはないらしい。ひよりさんの机の上がいつもゴチャッとしている理由が、ちょっとわかった気がした。
「ま、長い法医学者人生の中で、それと同じか、もっと酷い目に遭う可能性もあるわけだから、せいぜい今のうちに腕を磨いておいて」
「了解です。やってきます」
ひよりさんが、無駄話は終了と言わんばかりにパソコンに向き直ったので、俺も席を立って、実験室に戻った。
もう一度、毛髪から毛根部を切り取って、DNA抽出をやり直そう。
子供の頃にピアノを習っていたときのように、何も見なくても手が勝手に動くくらいまで、練習を重ねるしかない。
「で、今度採血することがあったら、そのときは、注射器からDNAを抽出する練習もさせてもらおう」
そんな目先の小さな楽しみを胸に……いや、それを「楽しみ」と認識してしまうあたり、少しは法医学教室に馴染んできたんだなと思いつつ、俺は新しいシリコン手袋をボックスから引っ張り出した……。