法医学教室の昼下がり 椹野道流 イラスト:オカヤイヅミ

白川温人(しらかわ はると)

郷間ひより(さとま ひより)

関根巌(せきね いわお)

古橋節子(ふるはし せつこ)

高梨健治郎(たかなし けんじろう)

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。

白川 温人

M大医学部法医学教室の大学院1年生。真面目で几帳面で努力家、若干繊細。法医学教室にずっといるかどうかは未定。
趣味はプラモデル作り。アイス大好き。

郷間 ひより

M大医学部法医学教室講師。
全体的に丈夫でのんびり。でも仕事はきっちりやるほう。意外と好き嫌いが多い。たくさん食べる。好きな解剖器具は有鈎ピンセット。自席の机の棚にプラケを置き、拾ったイモリを飼育中。

関根 巌

60歳。年上の妻と娘が2人。若い頃はずいぶんとやんちゃをしたらしきダンディ。法医学一筋なので、治療は一度もしたことがない。読書とクラシック音楽が趣味。糖尿病予備軍なので、妻に食事制限をかけられており、みずからも健康食品好き。
娘たちに手を焼いた経験があるので、部下と院生のことは放任しつつもさりげなく見守っている。

古橋 節子

法医学教室の秘書。昭和感みなぎる名前とルックスの、自称「法医学教室で唯一の普通の人」。
勿論、解剖に入ったりはしないけれど、ドクターたちが書いた死体検案書をお清書するのは彼女の仕事なので、難しい業界用語にはすっかり慣れた。 先日、初めて書いた医学用語は「杙創(よくそう)」。何だそりゃと思って調べたら、とても怖かった。

高梨 健治郎

47歳。病理学教室准教授
「治して健やかにする」という名前を持っていながら、治療ではなく組織診断のプロフェッショナルになってしまったうっかりさん。 名刺の裏には「高梨健診郎」と洒落で小さく印刷してあるが、誰も突っ込んでくれないらしい。

7

 夕方、そういえばひよりさんの姿が見えないな……と思っていたら、ブルーの袋を下げてふらりと戻ってきた。
 どうやら、学外へ出ていたらしい。
 俺だってよくやるので、特に咎めもせず、「お帰りなさい」と声をかけた。
 業務中に外出なんて、と思われるかもしれないが、そもそもうちの大学では、医師にはタイムカードがない。
 何時に来て何時に帰ろうと、月給に変化はないのだ。
 とはいえ、臨床なら診察開始時刻、俺たちなら解剖を始める時刻はきっちり決まっているので、結局、始業時刻は定まっていて、終業時刻は不定、という流れになってしまう。
 医師にタイムカードがない本当の理由は知らないけれど、たぶん、時間外労働と休日出勤をきちんとカウントしたら、とんでもない支払額になるからではないだろうか。
 だから、ひよりさんも教授も、どんなに朝早く来ようが(そんなことは、うちでは滅多にないけれど)、どんなに帰りが遅くなろうが(これは解剖の入った時刻と内容次第で、わりとよくある)、休みの日に呼び出されようが(これも、結構ある)、月給以外のエクストラの給与はびた一文発生しない仕組みだ。
 世間的にみれば相当にブラックだと思うけれど、ひよりさん曰く、「帰ったって寝るだけだから、そんなに早く帰れなくてもいいわ。それより自分のペースで仕事が出来て、空いた時間に何の気兼ねもなく出掛けられるほうがいいもの」ということなので、ワークライフバランスという奴は、人それぞれなんだろう。
 そんなわけで、帰ってきたひよりさんは自分の机にバッグを置き、ついでのように、俺の机の上にも小さな紙袋を載せた。
 一目でわかる、有名ドーナツショップのカラフルなロゴが踊っている袋だ。
「あっ、ドーナツ? どうしてまた」
「おみやげ。私は店で、買った本を読みがてら食べてきちゃったからさ」
「あー、いいなあ。俺、ドーナツ屋のコーヒー好きなんですよ。適度に薄い奴」
「わかる。コーヒー専門店ではなかなか望めない、ごくごくありふれた味の、何杯でもいけちゃう感じの奴ね。私も好き」
 そんな言葉を残して、ひよりさんは教室を出て行った。向かいの実験室へ行ったに違いない。
 ちょうど小腹が空いてきたところだし、今、マシン任せにしている実験の結果が出るまでもう少しかかりそうだし……ということで、俺はインスタントコーヒーを淹れて、早速ドーナツをいただくことにした。
 秘書さんと教授が帰ってしまってこの部屋にひとりぼっちだから、大きなテーブルはどうにも寂しい。
 だから俺は、自分の机でガサガサと紙袋を開けた。
 中には、チョコレートのかかったオールドファッションドーナツと、グラタンパイが入っていた。
 教室に入ってすぐの頃、ひよりさんと一緒にドーナツショップに行ったとき、俺が選んだのと同じものだ。
「俺の好きな奴、覚えててくれてたんだ」
 何だかちょっと感動して、そんな独り言が漏れる。
 ひよりさんは、解剖中に俺がした質問にすぐ答えられないとき、あとで必ず調べて教えてくれる。だから、仕事に関しては、とても記憶力のいい人だとは思っていたけれど、まさか好きなドーナツまで覚えているとは。
 指導教官恐るべしだ。
 薄めに淹れたコーヒーをブラックで飲みながら甘いドーナツをかじっていると、ひよりさんがスタスタ戻ってきた。
「いただいてます」
 そう挨拶すると、「どうぞぉ」と軽く答えて、ひよりさんは自分もマグカップにお茶を淹れて戻ってきた。
「まさか、俺の好きなドーナツを覚えてくれてるなんて思いませんでした」
 そう言ったら、ひよりさんはノートパソコンを起ち上げながら、俺のほうを見ずに、ちょっと困った顔で笑った。
「別に覚えようと思ったわけじゃないけど」
「それって、見たものを全部覚えちゃって忘れられないっていうアレですか? 洋物のドラマで見ましたよ、そんなヒロイン」
「そこまでじゃないわよ。ムラがあるの。芸能人の名前とか曲名とかはすぐ忘れるもん」
「そうそう。不思議なんだけど、覚えていたいと思ったからって、そうできるわけじゃないのよね。何かの拍子に、長期記憶のストレージにスポッと吸い込まれちゃう感じ。けっこうランダムなの」
「あー、そういやこないだ、五人組の某アイドルグループ、ひとりだけ名前が出てこないって唸ってましたもんね」
「そんなもんですかねえ」
「そんなもんよ。人生は、ど忘れとの終わりなきせめぎ合いだわ」
 やけに哲学的なことを言い放ち、ひよりさんはお茶を吹き冷まして飲んだ。
 チョコレートがたっぷりかかったドーナツで最後の一口をしめたいので、四分の一ほど残したまま、俺はグラタンパイに齧りつく。
 食べ方まで前のときと一緒だと笑いながら、ひよりさんはパタパタと軽快にノートパソコンのキーを叩き始めた。
 別にひとりでものが食べられないさびしん坊ではないけれど、やっぱり誰かと喋りながら食べたほうが美味しいに決まっている。
 これといって邪魔するなオーラも出ていないように思うので、俺はひよりさんに訊ねてみた。
「論文ですか?」
 するとひよりさんは、特に鬱陶しそうな顔もせず、あっさり答えてくれた。
「ううん、メール。飲み会の出欠の返事を出さなきゃいけないのを思い出したから」
「飲み会? あっ、もしかして合コン?」
 冷やかしで訊ねたら、ひよりさんはあからさまに嫌そうな顰めっ面を向けてきた。
「まさか。同業者の色気のない飲み会」
「同業者って、つまり、他大学の法医のドクターの集まりですか?」
「うん。正直、教授クラスはさ、過去の因縁があったりなかったりで、仲も良かったり悪かったりなわけ。だけど下っ端は、情報交換や知識のアップデート目的につるんだほうがいいんじゃないかってことになってね」
「はあ……。まあ、もともと絶対数が少ないですもんね」
「そういうこと。求人って問題もあるし」
「うわー、シビアだ」
 俺が思わず顔を顰めると、ひよりさんはニヤッとした。
「新人が珍しい業界だから、白川(しらかわ)君なんて、学会に行ったらモテモテよ。秋の地方会で学会デビューしてもらうことになるでしょうけど、懇親会でよその教授に拐(かどわ)かされないように、私が見張ってなきゃいけないかも」
「まさか」
「いや、意外と本気で」
 本当に真顔でそう言うと、ひよりさんはタンッと勢いよくエンターキーを押してメールを送信し、大きく伸びをした。
「はー、実験の結果が出るまであと三十分あるし、読書の続きでもしよっかな。さっき買ってきた奴、ドーナツ屋さんで頭だけ読んでみたら、けっこう面白かったのよね」
 そう言いながら、ひよりさんは袋から分厚いハードカバーの本を取り出す。
 俺はドーナツの最後のひとかけを口に押し込んでから、椅子ごとひよりさんに近づいた。
「どんな本です?」
「んー? 海外の推理小説。今度映画になるらしいから、先に原作を読んどこうかと思って。見る?」
 そう言ってひよりさんが差し出してくれた本を受け取り、俺はパラパラとページをめくってみた。
 小説なのに、やたらカラフルだ。絵や写真が、数ページおきに挿入されている。
「何だ、こりゃ」
 俺の驚きの理由を、すぐに察したらしい。ひよりさんは笑って言った。
「この本、イタリアが舞台で、しかも美術品や古い建築が山ほど出てくるのよ。それがどんなものか知らないと、理解もしにくいし、楽しさも半減しちゃうわけ」
「ああ、なるほど。それで、小説に出てくる場所の写真や資料が添付されてるわけですか。凄いな、論文みたいだ」
 感心しつつ、俺はふと裏表紙を見てビックリした。
「うっわ、五千円オーバー! たっか!」
 しかしひよりさんは、眉を八の字にして、むしろ不思議そうに俺を見た。
「そう?」
「いやだって、五千円札でおつりが来ない本って、けっこうハードル高くないです? よくポンと買いましたね」
「んー、だってほら、医学書に比べれば」
「あー。そりゃそうだ」
 俺は思わず、同意の声を上げた。
 学生時代から今に至るまで、医学の勉強をするには、どうしても医学書が必要だ。
 先輩から譲り受けられるものもあるが、ほとんどは自分で買いそろえることになる。
 ところが、医学書なんてそう数が出るものではないし、偉い先生方に執筆依頼をしなくてはならないし、定期的に改訂もしなくてはならない……たぶんそんな理由からだと思うのだが、やたら値段が高い。
 たまに一万円以下で買える本があると、「安いな!」と驚いてしまうほどだ。
 そんな生活を何年も続けていると、確かに本の値段には、自然と寛容になってくる。
 とはいえ……。
「小説はまた別でしょ。俺は無理だなあ」
 そう言いながら本を返すと、ひよりさんはあっさりとこう言った。
「読んだら貸してあげよっか?」
「えっ? あ、そりゃ、面白そうだからちょっと読んでみたいですけど、いいんですか? そんなに高い本なのに」
「いいわよ。読んだ数で割れば、一回当たりが安くなる気がするじゃない」
「それ、意味あります? 別に、払った分が戻ってくるわけじゃないのに」
「いいの、気分の問題なんだから。よーし、早く読んで、白川君に貸して、そのあと教授とせっちゃんにも読んでもらおう。四人で回し読みしたら、ひとりあたり千円ちょいだもん。むしろお得感が出てくるじゃない」
「……そうかなあぁ」
 首を捻りながら、俺は席に戻り、小説……ではなく、さっさと読んでしまわなくてはならない本をラックから取り出した。
 この教室に入ると決めたときに購入した、アメリカの法医学のテキストだ。
 無給の院生にはなかなか厳しい三万円弱の出費だったが、なるほど、読めば読むほど、一回分の経費が下がる……のはともかく、「元を取った」気持ちにはなれそうだ。
「よーし、読むぞ~」
 なかなかグロテスクな写真の乱舞に英文という二重苦に立ち向かうべく、俺は自分自身に気合いを入れ、大判の本を勢いよく開いた……。