「うーん、こりゃなかなかのもんだな」
実験室の薬品棚の向こうから、そんな耳慣れない男性の声が聞こえてくる。
俺はちょうどサンプルと試薬の注入を終えたチューブの蓋を閉めてから、席を立って棚の向こうを覗いてみた。
そこには、俺に背中を向けてスツールに座っているひよりさんと、彼女と向かい合って座る初老の男性の姿があった。
白衣を着たその男性の顔には、見覚えがある。たぶん、同じフロアの病理学教室の准教授だ。確か、高梨(たかなし)先生だったと思う。学生時代、講義を受けた記憶が微かにある。
「あ、どうも」
目が合ったので、俺は曖昧な挨拶をして頭を下げた。
「あ、法医の院生って君? ええと黒山(くろやま)先生?」
「白川(しらかわ)です」
「……はい」
ほうってなんだよと突っ込みたい気持ちをグッと堪えて、俺は曖昧な愛想笑いで頷く。
「法医は人がなかなか来ないらしいから、頑張ってあげてよ、白川先生」
「はあ、まあ」
やっぱり曖昧な相づちを打ちながら、俺は二人に近づいた。
いったい至近距離で頭を近づけて何をしているんだろうと思ったが、近くに行くとすぐわかった。
二人の間には、顕微鏡があった。しかも、二人で同時に見られる双眼タイプのものだ。
「組織ですか。つか、こんな顕微鏡、うちにあったんだ」
「あるわよ。あんまり使わないけど」
そう言って振り返ったひよりさんは、スッと立ち上がった。
「ご遺体から切り出した肺組織の所見で悩んでたから、高梨先生を捉まえて見ていただいてたの。いい機会だから、白川君も組織のプロに教えてもらいなさいよ。いいですよね、高梨先生」
「いいよぉ。法医学教室の新米君のためなら、一肌脱ぎましょう」
もしかしたら、高梨先生は見た目より若いのかもしれない。やけに愛想よくそう言って、どうぞというように自分の向かいの席を手で示す。動作がやたらスマートだ。
よその先生に新米呼ばわりされるのは、若干しゃくだけれど、病理学のドクターといえば、組織診断のプロ中のプロだ。直接教わるチャンスは滅多になさそうだから、そこは素直にありがたい。
そこで俺は席に着き、顕微鏡に向かった。
「肺ですか。俺にもわかりますかね」
「呼吸器外科の研修中にさんざん見たでしょ。大丈夫だよ。ほら、覗いてみて」
「すいません、ちょっと待ってください」
俺は大急ぎで顕微鏡の接眼レンズと両眼の幅を合わせ、視度を調節した。
顕微鏡で物を見るときには、自分の目にレンズを合わせるためのこうした手順が必要なのだ。
「オッケーです。お願いします」
いったん顔を外して、高梨准教授に軽く頭を下げると、白衣の袖で眼鏡を拭いていた彼は、軽い調子で「じゃ、行こうか」と言った。
はいと返事をして両目をレンズにつけるや否や、世界が回った。
大袈裟に言っているわけじゃない。
本当に、視界のすべてが溶けて流れるようだった。
「まずは低倍から見せるけど~」
そんな言葉と同時に、高梨先生が、猛烈な勢いで組織のプレパラートを動かし始めたせいだ。
「これは右肺下葉(かよう)を切り出したやつなんだけどね、今、肺門近くをずーっと見せてるよ。これが気管支。軟骨片が見えるからわかるよね。ここから辺縁に向かって、順に見ていこう。この辺に注目してくれる?」
そう言いながら、ようやくプレパラートを動かすのをやめた先生は、小さな矢印で、見るべき箇所を示してくれる。
「……はい、わかります」
「そっからずーっと見ていくと、ほら、辺縁部に近づくと変化がわかるだろ」
「あー、ええと、線維化、ですかね」
「そうそう。このへんを拡大するよ~」
「うあ」
また世界が回り、そしてピタッと止まる。
倍率を上げたせいで、細胞の一つ一つが宇宙の星のようだ。つまり今、俺の視界全体で、無数の星が流れまくっている。
「この辺はけっこう高度に線維化してるし、こっちは肺胞がだいぶ潰れている。ここはハニカムな感じだなあ。そうだね、うん、このあたりで胸膜の線維性肥厚がよくわかるでしょ。あとはリンパ球浸潤、平滑筋(へいかつきん)増成……とくると?」
喋っている間も、世界の回転と停止は延々と続いて、俺はだんだん気持ちが悪くなってきた。
「慢性の炎症……ですよね」
そんな最低限の答えを口にするのがやっとだ。
「そうそう。でもざっと見たところ、血管炎の所見は……どう?」
「見……当たらない、んじゃないかと」
「そうだねー! 先生はなかなか筋がいいんじゃない?」
「……どうも」
何とも無愛想な感謝の言葉だったが、それ以上喋ると、胃の中から何かが飛び出してきそうだった。
何かというのは、さっき食べたカツカレーのなれの果てだ。
恐ろしい。病理の先生の組織検索は、こんなに恐ろしいものだったのか。
学生時代、組織学や病理学の実習で組織標本はたくさん見せられたし、研修医時代もあちこちの科で山ほどチェックした。
でも、こんな豪速でプレパラートを動かしたことは、ただの一度もない。
美しい夜景を撮影しようとしたのに、酷い手ぶれ写真になってしまったときのあのビジュアルが、絶えず凄いスピードで移り変わっていく……そんな感じだ。
しかも時々ピタリと止まり、重要な所見がそのたび示されるので、目を閉じてやり過ごすというわけにもいかない。
「すみません、俺、ちょっと限界が」
思わず顕微鏡から目を離して訴えると、高梨先生はちょっと意地悪な笑い方をして、「あっ、そう?」と意外そうに言った。
その笑顔で、たぶん彼が、わざと必要以上のスピードでプレパラートを動かしたんだとわかったけれど、憤慨する気力もない。
これが病理学流の「可愛がり」というやつなんだろうか。
俺は立ったまま実験机にもたれかかり、どうにか胸のむかつきをやり過ごそうとした。
高梨先生は、そんな俺にはもう興味を失ったらしく、ひよりさんに話しかける。
「ひととおり組織を見たところ、郷間(さとま)先生の見立てどおり、この人、ベースに自己免疫疾患があったってのはほぼ確実だと思うよ。そういう既往歴(きおうれき)はなかった?」
「なかったんですよ。どうもこの方、もとから病院嫌いだったみたいで、受診歴そのものがなくて」
「ああ、なるほど。具合が悪いのに、意地を張ってやり過ごしていた感じだね。まあ、独居でこのお歳であまり出歩かなければ、ギリギリまで我慢できたのかもしれない」
そんな高梨先生の見解に、ひよりさんは、いつもの淡々とした口調で質問した。
「じゃあ、それが直接死因になり得る感じでしょうか」
「んー、軽々しく答えられないけど、呼吸機能はかなり落ちていただろうからね。状況によってはイエス、って感じかな」
「なるほど……」
「生きてる人なら色々検査できるけど、ご遺体じゃ、組織が頼りか」
「生前の呼吸機能をご遺体からのサンプルで推測するには、限界がありますからね。今回は発見が少し遅れましたし。自己免疫疾患の中でも、可能性として考えられるのは……」
高梨先生とひよりさんは、顕微鏡から離れ、データを見ながら専門的な議論を始める。
こういうとき、俺はスルッと置いてけぼりだ。
研修医を二年やったところで、専門分野に飛び込めば素人同然なのと痛感する。
それでもちょっとくらい議論に加わりたいのに、本気の船酔いになったみたいに頭がクラクラする。
二人の邪魔をしないよう、ちょっとずつ後ずさりながら、俺は、貴重な教訓を胸に刻んだ。
病理の先生に組織のコンサルトをお願いするときには、前もって酔い止めを飲んでおくこと……!